確かにそこにあったもの

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私と“あの人”が一緒に過ごしたのは、たった二夜だけだった。 最初の夜と、3ヶ月後にたまたまできたホテルの仕事の後だ。 あの人は敢えて、そういう機会を作ることをしなかった。 だから私も、そういう機会を望まなかった。望めなかった。 あの人との日常は、それまでと何も変らなかった。 それらしい素振りや言葉もなく、車の中で手を握るようなこともしない。 まるで、あの夜はなかったかのように…。 彼はその辺りを徹底していた。 最初は期待していた私も、そういう関係なのだと割りきるしかなかった。 だけど時々、私は感じていた。 チラリと目が合った時に、彼と私だけが分かる温度を。 何気なく触れた腕が、離れるまでの数秒を愛おしむような仕草を。 だから2回目の夜の彼は、とても饒舌で、私を隅々まで味わい尽くした。 今夜が最後とでも言うように…。 終わりは唐突にやってきた。 もうすぐ、彼の下について一年になろうという3月初旬、営業先から引き上げるため、車に乗り込んだときだ。 来年度から、女性も営業職に就けるようになるという話を聞かされ、私もそっちへいったほうがいい、と言われたのだ。 「もう、誰かの補佐じゃなく、自分中心にやった方がいい。給料も上がるし、やりがいがあると思うよ」 そう言う彼に私は、「アシスタントを替えるということですか?」と聞いた。 単純に、私を切りたいだけなのか、と思ったからだ。 彼は「まだ公になってないから」と先に言い、自分は他の支社に異動になると言う。 それも、営業としてではなく、支社長に昇格して、ということだった。 私みたいに「有能なアシスタント」が本社に残っていると、自分が行く先の支社が一番になれないからね、と彼は笑って言ったけど、その時も今も、それが本心なのかどうかは分からなかった。 2週間後、全社に通達が出て、彼が言ったように女性社員から、支社の営業職への希望者が募られた。 結果として、私はそこに応募したから今があるのだけど、何となくあの時、彼に本社から出るように言われたような気がしていた。 一方、“あの人”と離れたことで、二人で過ごした夜が、私の中で至上の愛の時間に思えるようになった。 背景も立場も関係なく、ただ純粋にお互いを求め合った時間だった、と。 私と彼だったから、あの時間があったのだ、と。 …だから、私の女としての人生は、あの時に終わった。 時間が経ったせいできっと、自分の良いように脚色しているところもあるだろうけど、それでもいい。 私の中にいるあの人は、苦くて、痛くて、辛いけど、とろけるほどに甘い。 思い出すたびに、身体の芯が疼く。 もう、あの人を超える人には出会えない。 だから私は、あの人の良いところだけを抱えて生きていく。 …アオ、綺麗だ。白い身体が跳ねて、人魚みたいだ。 ただ、それだけ…。
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