《満開の桜の下で》

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《満開の桜の下で》

 一月、二月と、厳しい寒波がこの国を襲った。    けれど三月になると一転、晩春のような暖かい日が続いた。  桜の開花は早いだろうとテレビに言われ、私はさくらと花見に行く日が待ち遠しくて仕方なかった。  糖尿病や白内障の不安は少なからずあった。が、(ただ)ちに処置が必要なほどではないと医師に言われ、私たちは日々スキンシップで心を通わせながら、絆を大切に育んでいた。  医師はさくらの年齢を気にしており、何らかの理由によって突然元気がなくなるかも知れないと心配してくれた。  私もそれは承知の上で、少しの違和感でも気づけるように観察していた。見たところ、さくらは格段に元気になっている。全力ではないにしろ、短い距離なら走ることもできた。  前の飼い主のことを、さくらはもう忘れている。雑に扱われていた日々を、上書きできたはずだろう。私はまるで嫉妬でもするように、そう思い込もうとしていた。あの女と会うことはないが、たとえ会ったとしても、さくらは私を認め、私から離れないでいてくれる。十七歳を過ぎてから捨てた酷いやつ。ふと思い出すたびに悔しくて、あのポメラニアンすら憎悪の対象に思え、その真逆にある愛情だけをさくらに注いできた。  でも、どうしても消えない記憶は犬にだってあるはずだ。仔犬の頃には愛されていたかも知れない。そのときに覚えた喜びが今も残っているかも知れない。特に動物は、においを忘れない生き物だ。あの()えた煙草のにおいも、さくらにとっては安らぎだったかも知れない。そう考えてしまう自身が嫌で、時折胸が詰まった。
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