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その女は、「都合が良いのは今なんですよ」と言い、「これから来れます?」と訊いてきた。腕時計を見て、私は「大丈夫です」と伝えた。女の家は、店からバスで八分ぐらいの距離だった。
ところが、バス停に着くと、次のバスは随分先のようで、ただそれを待つよりも歩いて行った方が早いと思った。歩きながら、母に電話をした。私の怒りや、犬を不憫と思う気持ち、きちんと責任をもって世話をするから、たとえ今日その犬を連れ帰ったとしても驚かないでほしい、と。
私が異質な人間であることを、母は誤解して受け止めていた。別に苦しんでなんかいないのに、変な気遣いで私に遠慮し、甘やかす。普段は苛つくことも多い関係だが、今回に限っては有難く思うことにした。犬を連れ帰ることを許可してもらえた。それが私の苦しみを和らげるものであるならと、些か見当違いに受け止めて、お金の面は気にしないでいいからね、との約束もくれた。
知った町ゆえに、目印となる建物や看板はすぐに見つけられた。指定された建物はやや古めの五階建てマンションだった。オートロック等はなく、エレベーターを使い三階まで上っていく。
306号室。表札は出ていない。少し躊躇ったが、チャイムを鳴らした。内から、小型犬と思しき犬の鳴き声がキャンキャンと聞こえた。
インターフォンに、若そうな女が出た。私は「先ほど電話した者ですが」と名前を告げた。十秒と待たず、扉が開き、現れたのは金髪で臍出しTシャツを着た三十路ぐらいの女だった。
「あなた、女性よね? 男の子みたいな服着てるのは、そういうこと?」
初対面で無礼だと思ったが、私は淡々と返した。この手の質問には慣れている。何も訊かずに偏見を示すより、あからさまに訊かれた方が良い場合もある。
「まあ、人生色々よね。見崎さんの事情を知ったところで、アタシにどうこうできるものでもないしさ。それより犬。もらってくれるんでしょ?」
女は私を室内に促した。煙草の饐えたにおいが染み込んだ部屋だ。一見したところでは、3DKぐらいの広さだろうか。
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