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 世の中には、「曰く付き」と呼ばれるような美術品があるらしい。  持ち主を呪って殺めてしまう絵画だとか、血を求める妖刀だとか。物騒な話はよく、私が朝の楽しみに読んでいる新聞を飾り立てている。  私にとっては少し広めのワンルーム、窓際に置いたソファに腰掛けて私は新聞を開く。今日の一面は、呪いの名画の持ち主が病に倒れた話だ。ベッドに伏せたまま、それでも絵画が愛しいのだと語る持ち主の写真と、インタビューが細かく載せられている。画質の荒いその人の写真は、病で歪なのか印刷技術がよろしくないのか、随分とやつれて見えた。 「誰がどんな財産をつぎ込んででも、手放すことはないだろう」  短い台詞に、私はぞわりと肌が粟立つ気がした。そこまでして手元に置いておきたい名画なら、一度見てみたい気もするが、呪われてまで手放したくないというのもどうなのだろう。……やはり、魅入られていたりするのだろうか?安っぽいホラー映画みたいな、真っ暗で不気味な絵画を想像して、私は眉間に皺を寄せた。  曰わく付き、と言えば、向かいの家もそうなのだろうか。  ちょうどソファを置いたこの窓からは、向かいの建物の窓がよく見える。よく窓もカーテンも開いているものだから、私からは様子が丸見えになっているのだが、向こうは気にならないのだろうか。昔はよく、カーテンを掛けられていたのだが。  あの一室にいる人は、ころころとしょっちゅう代わるのだ。カーテンをよく掛ける住人はは、優しい顔をした老人だった。絵を描くのが好きらしく、見せてくださいなとお願いをしたこともあった老人は寡黙で返事はなかったが、窓からよく見えるような角度にしてくれていたので、よく窓越しにこっそり見せてもらっていた。長い期間カーテンが掛かるようになってから、あの部屋は空き室になったのだと気がついた。  次にカーテンが開いたときには、いつも明かりをつけずに薄暗い部屋で、じっと何かの作業をしている男がいた。暗いところで何を、と思ったが、声をかけても返事もしなかった。居なくなってから気がついたが、彼はおそらく紙幣を数えていたのかも知れない。暗闇で不気味な笑い声を零していた、彼もしばらくして部屋から居なくなってしまった。声をかけたのは迂闊だったが、返事もなくて良かったと今なら思う。  それから最近よく見るあの部屋は、随分と仰々しい内装に代わっていた。まるで美術展のような風貌で、忙しなく警備員のような人がうろうろしているのが見えた。堅苦しい制服を来た男がよく、窓に背を向けて立っているのだ。  あれだけ厳重な警備をしているなら、さぞ素晴らしい作品でも守っているのかと、そっと覗こうとしたことがあった。けれど、その男性がどうしても邪魔になるのか、どれだけ背を伸ばしても作品らしき物は見えなかった。大事に守っているのなら、どうして窓を開けっぱなしにしているのだろうか。美術品の管理に、換気が重要なのだろうかと思うことにした。  と、私の狭い視野で世界を見るに、この世界には美術品が蔓延っているのだと思う。私も何か、作品を創ってみようかと思ったが、やめた。目玉焼き一つ焦がしてしまう私に、芸術は不向きだ。  だからせめて、美術品を楽しむ感性だけは持っていたいと、彼が守る名も知らぬ美術品に、思いを馳せてみる。 「きっと、あのおじいさんが描くような素敵な絵画ね」  コーヒーを淹れ直し、ゆっくりとソファにもたれて天井を見上げる。正方形に区切られたパネル状の我が家の天井は、長年お世話になっているものの、なかなか綺麗な方だと思う。そのパネルに這う細かな模様を視線でなぞり、思い描く架空の絵画に重ねる。  きっと、素敵な色合いで描かれた風景画なのだろう。好みで言えば、夕暮れのオレンジと紫の混ざる景色であってほしい。ちょうど、うちの部屋の壁紙のような薄い紫と、絨毯のように肌触りの良い橙がいい。そこに、髪をなびかせる美しい女性の後ろ姿が、シルエットになるように描かれているのだ。月が夜空に浮かぶのを焦がれる影が、陽の光に滲んでいて……。 「見てみたいな……」  あまりにはっきりと、断定したように語るのはおそらく、以前見た老人の絵画のせいだろう。女性の部分はまだ鉛筆で縁取られただけのだったが、その人の後ろ姿を記憶から手繰るように、丁寧に影を描いていたのが印象的だった。じわりと絵の具が滲んで、足元のオレンジ色に影を落としていく。それが溶けるように薄くなって、そこにまた色を足して、確かめるように老人は影を描いていた。それがなんだか印象的で、私はその絵の完成が待ち遠しかった。  あのおじいさんには、もう会えないのだろうか。あの部屋がカーテンで覆われている内に、引っ越してしまったのだろう。私はほとんど外に出ないものだから、この窓から見える景色だけが世界の全てと言っても過言ではない。あのおじいさんがまだ存命で、あの絵を完成させたのかどうかさえ、知る術はない。  あの厳重な警備部屋の主だろうか。警備の背中がぺこぺこと何度も頭を下げるときは、杖をついた老紳士が部屋にいる。老紳士は体が悪そうだったが、窓からこちらを見ては、気さくに話しかけてくれる。こんな私の、唯一の話し相手になってくれている隣人なのだ。 「ああ、今日もレディは美しいな」 「お上手ですこと。私はただの一般人ですよ?」 「此処でレディを見られることだけが、私の生きがいになってしまった」 「そんなにお体が優れないんですか?病院へは、行かれてるんですか?」 「いっそ、ここにベッドを置いて、あの長い点滴の時間をここで過ごそうか」 「話し相手になってくださるなら、私も嬉しいです」  老紳士はいつのまにか、窓際の警備員に話しかけていたようで、私の返事は聞いていないようだった。気さくだが、自由が過ぎる。お金持ちというのはそういう人が多いのだろうか。今日もまた、その部屋で守っている物がなんなのかを聞きそびれてしまった。  いつも上機嫌な老紳士だったが、今日は少し苦しそうな顔で新聞を握りしめていた。ひょっとして、あの呪いの名画の記事を読んだのだろうか?  あ、と声が漏れた。ひょっとして、彼はあの名画の持ち主なのだろうか。そうであれば、呪いと呼ばれるようなあの具合の悪さも頷ける。手元の新聞を広げると、あの画質の荒い写真が、言われてみれば彼に似ているような気もしてきた。手放してしまえばいいのに、と思いながら、彼のインタビュー最後の一文に目を落とす。
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