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「……きっと、その名画にも老紳士にとって、意味のあるものなんだろうなあ」  私にとって、二度と見ることの叶わないあのおじいさんの絵が、世間で曰く付きなんて呼ばれていたとしたら。私はきっと、手放すことはできないだろう。それが絵に見入られて、呪われた哀れな所有者であり、悲惨な末路を辿ることになったとしてもだ。誰になんと言われようと、大事な宝物を、呪いの一言で片付けられるのは口惜しい。 「大事な作品、なんだろうね。きっと、持っていることで意味を成すような、大事な思い出がつまっているような……」  気さくな老紳士は、もう帰ってしまっただろうか。警備員の背中がしゃんとしている。いつかそんな話を聞かせてほしいと、願いながら私は新聞を折りたたんで、ラックに片付ける。  その夜、ソファに腰掛けたままうとうとしていると、私は夢を見た。呪いの絵画を手放す夢だった。あまりに恐ろしい呪いだから、誰かの手に渡らないよう燃やしてしまおうと、夢の中の私は意を決するものの、あまりに申し訳なくてずっと謝り続けていた。すると、絵画が私に向かって叫ぶのだ。「好きで曰く付きになったわけじゃない」と。  絵画に描かれた女性は、背を向けながら嗚咽を零した。言われてみれば、画家は自らの作品を望んで呪うことはないだろうし、ならばどうして曰く付きなんかになってしまうのか疑問が残った。私はオレンジの夕焼けの絨毯の上に座り込み、彼女の話を聞いた。 「私は、私を描いた画家を愛していたの」 「うん」 「あるとき、病で両腕を失ってしまって」 「うん」 「口に筆を咥えながら、私を描いてくれたの」 「うん」 「わかる?唇って、人が愛を伝えるときに使うものでしょう?だから、私……」 「……」  夕日に負けないほど赤く染まった頬を、両手で押さえながら彼女は恥じらいながら微笑んでいた、と思う。実際は絵の中で背を向けているものだから、私にはわからない。  だから、代わりに想像するしかなかった。彼女のその、なびく髪を彼の唇が、筆を咥えながら描く様子を。筆の代わりに、指を噛んでみた。歯だけで支えるには心許なくて、唇でも支えなきゃ上手く持つことも出来ないだろうと思えた。繊細な線が彼女の髪を艶めかせていて、それをなぞるにはあまりに唇が震えた。 「彼のそんな、私への愛が、彼を追い詰めて苦しめてしまったの」 「ふうん」 「……ううん、実際はわからないの。本当は、腕の病が彼を蝕んだだけかもしれない」 「うん」 「全く関係のない理由で、命を絶ったのかもしれない。けれど、私にはわからないのよ」 「うん」 「だから、絵画である私には想像するしかできない。最期まで描きたかった私を」 「あなたは、綺麗だよ。とっても」 「ありがとう」  なるほど、つまりは絵が完成した途端に作者が倒れたものだから、彼女は曰く付きになってしまったというのだ。それは確かに、とばっちりが過ぎる。可哀想、と片付けてしまうのも違う気がして、彼女に私は、彼女を伝えたくなった。  私の部屋の壁紙と、柔らかな絨毯のような夕暮れで佇むあなたの美しさを、私を褒めそやすあの老紳士のように、気さくに語りたくなった。何度も唇が咥える筆でなぞられた髪に、触れたかった。  けれどそれは、一際大きな衝撃のために叶わなかった。がたん、と騒音を立てて揺れるマイルームに現実へと呼び戻され、私ははっと目を開く。 「何……地震?」  棚が倒れたりしたわけではないようだったが、外はカーテンが閉じられているせいで何も見えなかった。真っ暗なせいで、まだ真夜中であることだけはわかったものの、不穏な空気は私を無意味に追い立てているような気さえする。 「夢……?にしてはリアルだったような…隣人さんは無事かしら」  もしも本当に地震なら、お隣の宝物に何かあっては大変だと大騒ぎになっているはずだろうに、しんとした夜の空気は何も教えてはくれなかった。そっと窓辺によると、私が手を伸ばすより先に、カーテンが勢いよく開かれた。広がっていたのは、夜明けの近い白みがかった空だった。 「手荒な真似をして、悪かった」  そんな空を背に、私の窓を覗き込んでいたのは見知らぬ青年だった。カーテンを握りしめる指先は少し傷が多くて、なんとなく夢で見たあの絵画の作者を彷彿させた。彼女の話では、その画家に腕はなかったはずなのに、そんな運命を夢見てしまったのはまだ私が、寝ぼけていたからかも知れない。 「……なあ、頼むよ。じいさんを殺さないでくれ」 「何の、話……?」  突飛な話題を振られて、途端に私は混乱してしまう。青年は悲痛な顔をしながら、ただ私の顔を覗き込んでいる。端正な顔立ちに、見つめる目は深い紺色をしていた。そこだけがまだ深夜に取り残されているような気がして、私は時間の感覚もわからなくなる。 「お前の持ち主のじいさんは、ただお前に惚れ込んでただけだったんだ」 「え……?」 「その前のじいさんは、俺の祖父にあたる人だ。その人もお前の絵柄に惹かれていただけだった」 「……」 「なあ、なんでそんな綺麗な絵なのに、お前を愛した持ち主たちを殺してきたんだ」 「……私、」 「大事にされてきたはずだろう?少なくともうちのじいさんはそうだ。それなのに、何の恨みがあるって言うんだよ!」  言葉も出なかった。  ようやく絞り出した言葉は、ちがう、の三文字だけだった。私は、誰も恨んでないし、平穏で幸せだった。けれど私には、青年から吐き出された言葉と涙を受け止めることすらできなかった。窓の縁に雨が滴る。私の部屋が滲んで、足元には私の影が落ちた。 「お前が世にある限り、お前の持ち主が死んでいくなら、俺で最後にしてくれよな」  彼は私にそう語りながら、手元に赤い夜明けを携えていた。  それは小さくとも日の出のように眩しくて、それが私の終わりをもたらすものだと理解するのにそう時間はかからなかった。私は……。 「私は、呪ってなんかない……!伝えてちょうだい、私を愛してくれて幸せだったと!」  部屋が炎に包まれる。大好きな薄紫の壁紙に、真っ黒な焼け穴が広がっていく。柔らかな橙の絨毯も、暗闇に飲まれていってしまう。悲しいのは、燃え尽きていく髪の色すら私は知らなかったことだ。
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