28、衝動的な逃避行

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 濃いグレーのスーツに白いシャツ、紺のネクタイ。スーツの肩が少し濡れて、黒縁の眼鏡には雨の雫がかかって、邪魔そうにそれを振り払う。茶色のブリーフケースを手に、何かを探すように周囲をぐるりと見回す。すぐに目が合って、杏樹の方にまっすぐ小走りにやってきた。 「杏樹!」 「……雅煕さん……」   ぽかんと見上げる杏樹の正面に立ち、数秒息を止めて見つめてから、深い息を吐く。 「びっくりした! よかった……」  すぐ隣のソファに座り、杏樹を覗き込んだ。黒縁眼鏡の奥の、切れ長の目が、真剣に問いかけてくる。 「ごめんな、電話くれてたけど仕事中やったから、出られへんかったんや。それに知らん番号やし、かけ直すのも躊躇してしまって」 「う、ううん。……突然、ごめんなさい。わたし――」  それ以上何も言えなくなり、感極まって涙が溢れ出す。泣き出してしまった杏樹に雅煕が焦って、その前に跪いた。 「ど、ど、ど、どないしたん! 杏樹? 何があったん?」 「う……ごめ……さい……」  そこへ、ボータイを締め、胸に金のネームプレートを付けた中年の男が近づいて、声をかける。
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