29、ダサ眼鏡の若様

1/7
前へ
/337ページ
次へ

29、ダサ眼鏡の若様

「抱いて――」  杏樹の唇から零れた言葉に、雅煕の脳がスパークする。  言われなくてもそのつもりですけど! しかしだ! そもそも、いきなり何てことを言い出すんや――!    週一回、一コマだけの非常勤講師のアルバイト。恩師がお情けでくれた仕事の最中に、上着の内ポケットに入れたスマホが振動した。  なんとなく予感はあった。だが、見知らぬ番号にかけ直す勇気がないまま、三時間ほどが過ぎ、小雨の中、雅煕は仕事先の大学を出て待っている黒いセダンを探す。  大学院を卒業したことで、今までは許されていた、市内での公共交通機関の利用は祖父によって禁止された。  和泉家の跡取りとして、常に運転手付きの車で移動するように命じられた。京都のような狭い街では、車を適当なところに停めておくことができない。春秋の観光シーズンには渋滞を見越して時刻を計り、しかも目立たぬようにとなると、いろいろ神経を使う。  運転手付き自動車で移動する、限りなく無職に近い男。――運転手の人件費も、ガソリン代も、何もかもが無駄な気がする。もはや、俺自身がこの世に不要な存在でしかない――
/337ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2331人が本棚に入れています
本棚に追加