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35.百鬼の人間性を分析する
杉並署を出て車に乗り込むと、蒼太からのメッセージに気づいた。
「蒼太が病院に来てほしいそうだ。話は会ってからだそうだ。五十嵐のことかもしれない」
近衛は軽く頷いてシートベルトを装着した。何か考えごとをしているのか、由利が車を発進させてしばらく何もしゃべらなかった。元々寡黙な人間なのだろうが、それにしても沈黙されると、何だか由利がやりにくい。
「さっき百鬼の事件に食いついてたな」
「動機について考えていた」
「それなら僕も気になっている」
「どんなふうに?」
「妙だと思わないか? なんで犯行に及んだのが昨夜なんだ?」
昨夜は立てこもり事件が起きて、犯人が逃走したために、都内はふだん考えられないほどのパトカーが走っていた。由利が現場からマンションに戻るまでに、目を向けた先々に警官がいて、厳戒態勢が敷かれていた。
夜9時ごろの犯行となれば、逃走直後でもっとも警戒されていた。そんな中で、百鬼は犯行に及んだのだ。
「最初から、昨夜黒谷を殺す計画をしていたのかもしれない」
「だったら、もっと変じゃないか。犯行現場はジョギングの習慣を知っていればこそだ。当然、黒谷の生活圏も把握していたはずだ。事務所や自宅付近のほうが、目立たずに襲うことができるじゃないか。それこそトイレでいいだろう? 何も人気のジョグコースで襲う必要はない」
「同意見だ」
近衛が端的に言って頷く。
「動機については?」
「きみはどう思う?」
「事件詳細を取り寄せ中だが」
へ、取り寄せているのか? 相当気にかけているらしい。
近衛は慎重な口ぶりで言った。
「仮に5年前の傷害致死事件が、野原が先に手を出していたとしたら、正当防衛の線もあったのかと考えていた。本人は無罪放免だと思ったのに、思わぬ量刑を喰らい、黒谷弁護士を逆恨みしたとかな。逆恨みはよくある動機だ」
そこまでは無理のない推測だが、由利は首を傾げた。
「でも、それでもやっぱりおかしいな。少年院を出て3年も経ってる。どうして昨夜だったのか、という疑問が残る」
「どうして昨夜だったか、というより、昨夜でなければならなかったとしたらどうだ?」
「え?」
「誰かに煽られて、あるいは頼まれて、日時を指定されていたとしたら?」
──誰かに
由利は近衛と目を見合わせた。
それは腑に落ちる考えだった。
黒谷を殺したいほど憎んでいる人間がいて、百鬼を焚きつけた。それができるのは百鬼と黒谷の関係や、百鬼の不満を知っている身近な人間、あるいは身近な人間と繋がっている何者か。
「リスクが高すぎだろ。百鬼に何のメリットがある? 逮捕されたら今度は二度とシャバに出られない。百鬼自身の強い動機が必要なはずだ」
「由利さん、強い動機がなくても、簡単に人を殺す人間なんてザラにいるんだ」
「それはそうだが、百鬼の場合は違うと思う」
「え? 由利さん、百鬼を知らないんだろう?」
近衛の目が眇められて、由利はコホンと咳払いした。
「こうみても心理学の専門家だ。人間の心ほど扱うのが難しいものはないが、柚原刑事の話だけで、わかることもある」
近衛がじっと由利を見つめた。
続けてくれ、ということだ。
「百鬼はいじめっ子から身を守るために格闘技を身につけた。身を守るため、と柚原刑事が言ったのは、これまでの記録で、百鬼は攻撃のためではなく、あくまでも、防衛のために身につけたことがわかっているんだ。もし柚原刑事が百鬼について、いじめっ子をやり返すために格闘技を始めた、と聞いていたり記録にあったりすれば、そう言ったはずだ。彼女本人は無意識だろうが、視たり聞いたりしたことは、そのまま意識に残って言語化される。わざと婉曲したり、自ら印象を操作したときは、表現が極端になる。それと言い回しが、理路整然となる。
柚原刑事の話だけでは情報が少なすぎるが、百鬼の性格は己の力を見せつける方向ではない、と僕はみる。ナイフで知り合いの背中を刺して殺すとなれば、かなり強い動機があったと思う」
饒舌に語ってやったというのに、近衛がククッと喉の奥を鳴らした。
「本当に専門家なんだな」
「おい」
由利は微かに笑った。酔い潰れた酷い姿や苛々した姿しか見せていないから仕方がない。ここは許そう。
それに犯罪心理学はまた分野が異なる。犯罪は計画的なものより突発的なものが多いのも事実だ。
「じゃ、オレからも一つ。百鬼の性格はそうとう攻撃的だ。ヤクザの百人斬りを目指しているやつに、攻撃性がないとは言えない」
「もちろん、防衛のために頭脳戦ではなく、格闘技を選ぶあたり、百鬼がどっちよりかはわかる。不向きな人間は決して、空手やボクシングで対抗しようとは思わない」
「由利さんならどうする?」
「僕はそうだな、弁護士にでもなって、ひとりずつ法の裁きを受けさせるだろうな──」
──きみは、と近衛に訊ねかけて、由利はクッと笑った。
近衛がいじめられっ子だった想像はできない。
「百鬼に関して言えば、転換期があったんじゃないか」
「転換期?」
由利は頷いて、持論を展開した。
「これまでは向かってくるやつを返り討ちにすればよかったのに、そうも言ってられなくなったんだろう。ヤクザの百人斬りを目指している、と警察が把握してるってことは、すでにトラブルが起きているんだ。にもかかわらず、百鬼はフリーに動いている。ヤクザが警察に被害届なんて出さないだろうしな?」
「出さないだろうな」
「百鬼だってヤクザに関わりたいはずがない。返り討ちしたやつの中にヤクザがいたが、その報復に身近な人間が暴力を振るわれたか。たぶんそんなところだろう」
そこまで言ってから、由利はハッとした。
百鬼があえて黒谷を殺すとしたら、自分の不満が動機ではない可能性もある。
「百鬼のことは頭に入れておこう」
「僕には関わりはないと思うけどな……」
「それでも、Mが起こした事件と、百鬼の犯行時間の近接が気になる。顧問をしていた五十嵐教授も行方知れずだしな」
「五十嵐か……」
「黒谷弁護士も、5年前の立てこもり事件と関係あったよな?」
「空木知哉に対する江藤の暴行脅迫職権乱用について、被害届を出すための話し合いに参加していた。実際に被害届を出す段取りになって、手を引いたが」
「話し合いって、他に誰がいたんだ?」
「知哉のじいさんの知り合いが中心だった。他には、警官による被害者の会なんかが接触してきたらしいが……」
言いよどむ由利を、近衛は容赦なく突ついた。
「らしい? なぜ又聞きなんだ?」
「僕は、途中で抜けた」
「なぜだ?」
近衛が驚いたように由利を見る。
「ん……」
まぁ、聞くよな。
威勢よく江藤を責めていたのに、自分は弁護団がどうなったか知らずにいるのだ。
由利は知哉と祖父さんに、もう関わらないでくれと、会から追い出されていた。
知哉は特に大ごとにしたくなかったのだ。自分のリハビリで手一杯で、国家権力と戦うだけの意思も気力もなかった。由利が江藤に対する怒りをあらわにすればするほど、知哉は由利から離れていった。
──もうボクに会いにこないで
知哉の精神ケアを任されていたのに、最後は担当医であることも拒絶された。
冷めた目で背を向けられ、由利はしばらく何も手がつかなかった。
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