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「はい。これで、準備OKね。受験票は?」
「うん。持った。ありがとう…」
朝。
玄関先で絢音に制服のブレザーのネクタイを整えてもらい、藤司は赤い目をしながらも頷く。
「じゃあ、約束ね。いってらっしゃいのキス、しましょ?」
「うん…」
そうして肩を抱き、ゆっくりと顔を近づけて、昨日の絢音のやり方を思い出しながら、優しく唇を重ねる。
「頑張ってね…お夕飯、リクエストあったら、15時までにメール頂戴。」
「うん…ほな、いってくる…」
「うん。いってらっしゃい…」
そうして見送らせて、長屋を後にすると、路地の出口で、待っていた藤次に出くわす。
「あっ…」
「なんやねん。しみったれた顔して。大一番やろ?しゃんとせぇ!」
バンと背中を叩かれて瞬いていると、藤次は鞄から一冊のノートを取り出す。
「?」
「ダメ押しの一冊や。今年のセンター入試…ワシなりに分析して、出題の傾向と内容、整理してみた。あんじょう気張りや。あと、絢音…大事にしたってな。今は、今だけは、お前がアイツの、亭主や。」
「あ、ありがとう…ございます…」
「別に。礼なんていらん。敵に塩を送っただけや。…ここまで手厚う送ったんは、お前が初めてや。落ちたりしたら、張っ倒すだけじゃ済まんからな?覚悟せぇよ?」
「はい!」
「ん。ほんなら、早よ行き。遅刻すんで。」
「はい!ありがとうございます!!行ってきます!!」
そうして藤次に見送らせて、藤司は最寄りのバス停からバスに乗り、試験会場へと向かう。
車内で、絢音のくれたお守りを握りしめて、藤次のくれたノートを開き、最後の追い込みをしていると、桶本が近くにやってくる。
「おはよう。」
「なんや。委員長もこのバスやったんかい。」
「うん。って言うか、相原君ち、この辺りじゃないでしょ?なんで、さっきのバス停から乗ってきたの?」
「別に。委員長には、関係あらへんにゃろ?」
「そりゃ、そうだけど…ねぇ、何で急に、検察官なんて言い出したの?…楢山さんが、目指してるから?最近、よく話してるし…付き合ってるの?」
「んなわけあるかい。そんな余裕ないわ。志望大が一緒やから、傾向と対策、聞いとっただけや。それに、何遍も言わすな。委員長には…関係ないやろ。」
「なによ…」
「ん?」
声が震えていたから横を見やると、顔を真っ赤にして涙目の桶本がいた。
「い、委員長…?」
「もう、知らないっ!」
瞬く藤司に、キュッと踵を返してバスの奥に去って行く桶本を見つめる。
あの顔は、自分が絢音を思って涙を流す様と、同じではないか…
なら…
「まさか…な。」
呟いた瞬間、試験会場に通じる最寄りのバス停がコールされたので、藤司は停車ボタンを押した。
*
「た、ただいま…」
1日目を終えて、ドギマギしながら玄関の引き戸を開けて声を上げると、パタパタと足音がして、絢音が出迎えてくれる。
「おかえりなさい。お疲れ様。」
「うん…」
「鞄とコート貸して?お夕飯まで時間あるけど、オヤツにする?お昼に急に食べたくなってホットケーキ焼いたんだけど、その余り温めましょうか?それとも、息抜きに散歩にでも行く?」
「あ…あの…」
「ん?」
不思議そうに自分を見つめる絢音に、藤司はポツリと呟く。
「先に…ただいまのキス、したい。」
その言葉に、絢音は困ったように笑う。
「いやあね。甘えん坊さん。そんなに寂しかったの?」
「そんな……子供扱いせんでくれ!!ワシは今、お前の亭主や!亭主がしたい思うんは、当たり前やろ!?早よ!して!」
そう言って詰め寄ってくるので、絢音はまた笑って、彼のネクタイを引いて屈ませると、チュッと、音を立ててキスをする。
「…これで良い?あなた?」
「うん。ええ…」
「そ。なら、この後どうするの?散歩?オヤツ?それとも勉強?」
「腹減ったから、オヤツ。あと、疲れたから、肩…叩いて。あと、できればでええんやけど、膝枕…して欲しい…」
「…分かったわ。じゃあ、お家でゆっくりしましょうね。できる限りのこと、してあげる。夫だものね。」
「うん。ワシは夫で、お前は、ワシの…妻や。」
…飯事でも良い。
今この瞬間、自分は絢音の夫で、絢音は、自分の妻。
明日で終わる、儚い飯事だが、それでも良い。
今だけ、今だけ、そう心に言い聞かせ、藤司は絢音との切ないくらいの甘い時間に、身を委ねた。
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