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長屋街の路地に入り、奥から3番目の家の前に立ち、引き戸を開こうとすると、鍵が掛かっており、格子になにやらメモが挟まっていた。
−おかえりなさい。今夜はここに来て。着いた時、もしくは分からなかったら、下の番号に連絡下さい。絢音−
短く書かれた文章の下には、スマホの番号と、何処の住所が書かれていた。
「なんやろ。朝、変なこと言うてもうたから、怒ってんのかな?」
不思議に思いながらも、来いと言われたら行くしかないと思い、藤司はスマホの地図アプリを起動させて、住所を入力する。
「えっ…」
住所を入力し示された場所に、藤司は瞬く。
絢音に指定された場所は、京都市内でも1、2を争う、高級ホテルだった。
一体なぜこんなところにと疑問しか湧かなかったが、やはり来いと言われているので、不安を抱えつつ、藤司はそこへ向かった。
*
「ここや…」
着いたのは、京都らしい和風の日本家屋を思わせる、4階建てのシックで落ち着いたホテル。
スマホを取り出し、メモの番号に電話すると、暫時のコール音の後、絢音がハイと出る。
「相原やけど、言われたとこ、着いたで。」
「そ。なら、最上階の405号室来て。フロントで連れが来たと言えば、大丈夫だから。」
「う、うん…」
そう返事をすると、スマホが切れたので、藤司はコートの汚れを手で払って、小さく咳払いして、フロントへ向かう。
「あの…405号室に宿泊している女性の連れなんですが…」
すると、フロント係は一瞬瞬いたが、直ぐに和かな営業スマイルになる。
「ご主人様…棗藤司様でございますね。お待ちしておりました。お部屋、ご案内させていただきます。」
「えっ……」
顔を赤らめ狼狽する藤司に、フロント係は小首を傾げて、宿長を示す。
「奥様から、チェックイン時に、このように御記帳賜っておりますが…」
そこには、確かに絢音の字で、「棗藤司、絢音」と、連名で書かれていた。
本当に、夫婦を演じてくれている…
嬉しくて、思わず写真に撮りたくなったが、不審に思われたら元も子もないと頭を振り、間違いありませんと言って、ホテルスタッフに先導され、最上階の…絢音の待つ部屋へと向かう。
「こちらになります。お夕飯は結構と伺っておりますが、御入用のものがございましたら、なんなりとお申し付け下さい。では、鍵になります。」
「あ、ハイ。おおきに…」
イエと頭を下げて去っていくスタッフを一瞥して、藤司は鍵を鍵穴に入れてドアを開け、部屋に入る。
「絢音さん。来たで…」
すると、奥の座敷から、艶やかな青の着物に、鼈甲の簪を差して飾りつけた結い髪、丁寧に施された化粧…思わず別人かと見紛う程に美しい姿の絢音が、自分を出迎える。
「おかえりなさい。受験、ご苦労様…あなた。」
にっこりと微笑みながらコートを脱がすと、そのままチュッと口付けをされ、唇に紅がついたので、絢音は小さく笑い、袂からハンカチを出してそれを拭う。
「汗かいたし、疲れたでしょ?ご飯の前に、一緒にお風呂…入りましょうか。露天だから、景色綺麗よ?背中も、流してあげるわね?」
「えっ!?」
突然の申し出に真っ赤になる藤司に、絢音はまた微笑みかける。
「ヌード、描いてくれるんでしょ?なら、お風呂一緒に入るのも、同じじゃない。それに、今は夫婦でしょ?」
「せ、せやけど…さすがにそれは、藤次さんに悪いわ…」
「大丈夫。全部話して、了承済みだから…ただ、セックスだけは、どうしても許してくれなかったし、私もやっぱりできないから、許してね。」
「そんなん…ここまでしてもろて、わがまんま聞いてもらえて、許さんなんて言えん!!好きや…僕ホンマに、お前が好きや!忘れたない。ずっと一緒におりたい。明日なんて、来て欲しない!もっとぶっちゃけてまえば、一緒にどっかに逃げて欲しい!!せやけど…」
キュッと、藤司は瞳に力を込めて、涙を堪えて続ける。
「せやけど、それじゃあかんのや。お前からあの人奪ったら、きっとお前は、笑ってくれんようになる。ワシの惚れた、お前やのうなる。そんなん辛すぎて、一緒におっても、苦しいだけや。せやから…同じ苦しみならワシ…お前を忘れる方を選ぶ。何年かかるか分からんし、きっと、生涯忘れられへんかもしれん。せやけど、不思議と好きになった事への後悔も未練もない。もう…充分や。おおきにな。絢音さん…」
「こっちこそ、そんなに想ってくれて嬉しい……会えて良かった。藤司…」
「うん…」
「じゃあ、お風呂はいりましょ?浴室、こっちよ。」
「うん…」
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