オレンジジュースの勇気

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 「お疲れですか?」 そうバイトの女の子から聞かれた。よく喋り、よく笑う、だれとでも仲良くできるタイプの子で、入った時から人気者だった。 俺も最初は気にならなかったわけではない。けどすぐに、どうでもよくなった。彼女からのLINEに返信するより、今日のログインボーナスをもらう方が大事に思えたからだ。 毎日朝から深夜まで冷凍保存された食べ物を温めては客に提供し、客が食べ終わった皿を洗い、その皿を使ってまた温められただけの食べ物を提供をする。 家に帰ってすることといえば、散らかった部屋に唯一あるスペースに寝ころび、仕事以外に唯一継続しているゲームのデイリータスクをこなすこと。 「疲れてるっていうか、飽きた。」 そんな言葉が口をついて出た。後から思い返しても、自分の現状を表すのにぴったりの言葉だった。 女の子から同情にも似た「あーそうなんですか」という言葉が返ってくる。 「毎日同じことの繰り返しすぎて」 俺が独り言のように返した言葉が、女の子の顔をさらに哀れむような表情に変えた。毎日大学生活を謳歌し、沢山新しい人間と出会って、人の持つ喜怒哀楽の感情を存分に使っている彼女には想像もつかないような生活なのだろう。 俺は居たたまれなくなって目線を落とし、短い溜息をついて作業に戻った。 バイトの女の子もとっくに上がり、時刻は夜10時半をまわる。 ようやく休憩をもらい、外に出た。普段はタバコを咥えるのだが、今日はただただ外の空気が吸いたくて裏口のドアをあけた。 裏口のすぐ外に積まれたドリンクケースに腰を下ろす。 思えば、こんな人生になったのは中学卒業あたりだった。憧れの先輩を追いかけて同じ高校に入りたかった。けど、あまりにも実家から遠かった。今思えばそんなつまらない理由で、俺は興味もない地元の高校に進んだ。特に思い出もない高校生活を過ごし、ゲームの課金のために始めたバイト先にそのまま卒業後就職した。 職場ではバイトやパートさんたちは、俺をすごいやつのように扱ってくれる。でもわかっている。それは単なる「社員」という肩書きと、慣れた作業に向けられたものだということを。皆心の内では思っているのだ。こんな若造に指示されるなんて、と。若いくせに夢も持たずに、狭い世界で威張っている、と。井の中の蛙だ、と。 こんな人生はごめんだ、と。 急に喉が渇いた。自分で自分を追い詰めてどうする。被害妄想だ。 俺は立ち上がって自販機に向かった。 どうも頭がすっきりしない。荒れた指先でいつものエナジードリンクを選ぼうとした。 また毎日のルーティーンをなぞっている。毎日同じ仕事をし、毎日同じ賄いを食べ、毎日同じエナジードリンクを飲んでいる。少しくらい。 こんなことが違いを生み出すことがないのは百も承知で、おまじないや占いの類いも特に興味がないけど、俺はオレンジジュースを選んだ。 昨日と一個違うところだ。その事実だけで今は満足だった。 オレンジジュースを飲むのはいつぶりだろうか。くすぐったいような甘さが喉に飛び込んだ。俺は思わず目を閉じた。美味しい。 「おい、チワワ!」 声に驚いて目を開けると、周りは眩しく、蒸し暑かった。 むわっと押し寄せる懐かしい匂いと鼓膜に響く音。 そして、俺を懐かしいあだ名で呼んだ目の前に立つ人。 間違いない。俺は中学の体育館で先輩と対峙していた。 無意識に首をキョロキョロと動かす俺に、先輩は軽く笑って 「お前、動作までチワワみたいになったな」 といった。その笑い方、その表情、すべてが懐かしく、目に映っている全てが今にも壊れてしまいそうで、俺は思わず泣きそうだった。 何故だかわからないが、今俺は中学時代にいる。俺の良い思い出すべてが詰まった場所。俺が戻りたくて仕方なかった場所。そして会いたくてたまらなかった人が目の前にいる。 俺はどうすればいいかわからず、その場に立ち尽くした。先輩は 「帰らないのか?」 と懐かしい優しい声で不思議がる。いつも一緒に帰っていた。部活の話をしたり、ゲームの話をしたり、後輩もまじってワイワイ騒いで好きなように喋りながら帰っていた。 プレッシャーもなく、周りがどう考えているかなんて今ほど神経質になっていなかった。格好よくなかったし、お金もなかったけど、ただただ楽しかった。 「先、行っててください。」 俺はやっとのことでその一言を絞り出した。先輩は少し間を置いた後、「はいよー」と言って、靴を履き替えて体育館を出ていく。 欲望のままに動くなら、今すぐ先輩を追いかけて、昔みたいに過ごしてずっとこの時間軸にいたい。けど、何かが止めている。 俺は考えた。何が俺にこんな幻想を見せているのかはわからないが、必ず今日の考えすぎが作用しているはずだ。どうすれば抜け出せるのか、どうすれば抜け出さずに済むのか。俺には何をすれば正解なのかわからなかった。 すると、後ろから聞きなれたメロディが風に乗って聞こえた。 振り返ると、竹刀を抱えた小さな男の子が口笛を吹きながら俺を追い抜いて行った。俺は目を見張った。 俺だ。 この後の人生なにが待ち受けているのか、何一つ知らない俺だ。 背丈はそんなに変わっていないのに、小さく、愛らしく見えた。 一瞬だけ小さな俺の目の奥に見えた光が、俺をむせび泣きさせた。 「ごめん」 小さく嗚咽と一緒にそんな言葉が出た。俺はもういなかった。大好きな憧れの先輩でも追っていったのだろう。 思い出した。あの頃の俺は夢をちゃんと見ていた。 上京したり、素敵な人と出会って結ばれたり、先輩たちと大人になっても遊んだり。大層な夢じゃない。けどやりたいことはあった。 今は全部失くした。 田舎の、出会いがない小さな店にとどまり、先輩や中学の奴らとは疎遠になった。 泣いて泣いて、視界がぼやけた。 戻りたくない。ここからやり直したい。やり直し方ならわかる。 俺は体育館から出た。暑くて汗がでた。みんな必死に肉体を動かしている。 この頃はまだ、同じ人間という感覚があった。クラスの一軍の奴らでさえも。 「大丈夫っすか?」 はっとすると、短いコンクリ階段の下に俺がいた。生意気そうな口調すら俺の胸を締め付ける。 「これあげます。」 小さな俺は汗をかいているペットボトルのオレンジジュースを差し出す。 俺は時間なのだ、と察した。きっとこれが迎えの合図だ。 「ありがとう」 思えばこの頃の俺は、人を気遣う余裕も今よりあった。俺は俺からオレンジジュースを受け取ろうと手を伸ばす。その時、思い出した。 ある日の部活帰りにオレンジジュースを知らない人にあげたことを。なぜか体育館にいて、泣いていた男の人に。OBか何かだと思っていた。その日お小遣いをもらったばかりの俺は、気まぐれにその人にジュースなんか買ってあげてみたのだ。その人は更に泣いて、でも笑っていて、変な人だと思った。 そして俺は悩んだ末に言ったのだ。 「「大丈夫、大丈夫」」 俺は驚いた顔をしていた。俺は小さな俺に微笑んでオレンジジュースを飲んだ。もう大丈夫。 「犬飼くん?休憩終わりだよ!」 店長の呼ぶ声がする。俺はまた自販機の前に立っていた。 視界がいつもより澄んでいる気がした。星すら見える。 あの日の俺が教えてくれた。日常の歯車をずらすのは自分の役目だ。 俺は携帯を取り出し、電話帳の奥から先輩の電話番号を引っ張り出した。もう何年も喋っていないけれど、あの幻覚のおかげで不思議と空白期間の気まずさがない。 「もしもし?」 幻覚の時と違う、少し掠れた声だけど確かに先輩の声だった。それが余計に嬉しかった。 何かが始まる、その高揚感が俺の足取りを軽くする。 明日も、何かやってみよう。
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