第一部 青合羽

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第一部 青合羽

【その一 下加治屋町】  薩摩は南国だが、時に耐えがたいほどの冬が訪れる。  その年は早くから粉雪が降り始め、師走ともなると、時に雪が草履を埋めるほどに積もった。    師走も半ばを過ぎかかると、年末年始のことに追われるようになる。  下加治屋町は、貧しい下級藩士の家があつまる集落だった。まともな米など滅多に食べることができないほどの貧しい家ばかりであるが、それでも年を越すとなると、それなりに支度が必要となる。位が低いとはいえ、侍の家だ。いい加減なことはできないのだった。  その貧しい下加治屋の中でも、大久保家はまことに貧しく、崩れそうな家の戸を開けば家具などろくになく、寒々とした様子である。「猫のくそ小路」と呼ばれる狭く細い路地の角にあたる場所にあった。  その夜、大久保家の長男、正助の帰宅は遅かった。記録所書役助の仕事が多忙だったせいである。  年の暮れが近づくと、役所の仕事はどうしてもひどくなった。いつもならば家で休んでいる時間だったが、その日に限り、家に着いたのが亥の刻ほどであった。  粉雪が吹雪くような凄まじい晩である。  体に揉み込まれるような寒さのため、蓑を纏いながら正助は小刻みに震えていた。月もなく、目の前が雪で白くなるような見通しの悪い中、ようやく家に到着する。引き戸に手をかけた時、おやと手を止めた。  (子どんの声が聞けるど)  隙間風が吹き込むあばら家である。中の声は筒抜けだ。  家の中からは、幼い男の子がむずがる声が聞こえていた。大久保家にそのような小さな子供はいないはずである。    「おおよしよし。大丈夫じゃっでね」  むずがる子供をあやす声も聞こえる。これは、母の福の声だろう。妹たちも、心配げになにか話している様子である。  大久保家の当主、つまり正助の父は、今は京都に出ていて長の留守だ。今、家にいるのは女どもだけのはずだった。    おかしなことはそればかりではなかった。  粉雪が次々に降る中で、玄関の引き戸の前には、まだくっきりと足跡が残っていた。大きな足跡である。  「一体何があったんじゃ」  正助は、引き戸を開けるなり問いかけた。  開いた戸から、外の寒気が入り込み、貧しい家の乏しい暖気はかき消される。土間は完全な闇であり、子供の泣き声は襖の向こう側から聞こえていた。  正助の帰宅を察した妹が、急いで襖を開いて現れた。これは三人いる妹の一番上の、キチである。ちびた蝋燭を灯した燭台を片手に、夜目にも分かるほど白い顔色をしている。正助とよく似た堀の深い顔だちに濃い影が落ち、大きな目はぎらぎらと光っていた。  恐怖の色だ、と、キチの目を見た瞬間、正助は思った。  何か恐ろしいことが起きている。キチは外の寒気が流れ込むのを防ぐために、襖を素早く閉めているが、一瞬開いたそこからは、ひきつけを起こしたかのような子供の声が聞こえたのだ。
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