第一部 青合羽

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 「兄い」  キチの声は震えていた。  「島田どんの家がおかしかど」  隣接する島田さんの家がおかしい、と、キチは言っている。  正助は濃い眉をひそめた。情より理を重んじる兄の性格をよく知るキチは、懸命に震える声を抑えた。なるべく感情を出さずにキチは説明した。  吹雪いてきた黄昏時あたりだろうか。島田家に妙な男が訪れるのを、キチは見かけた。男は島田家の中に向かい、何ごとかを告げた。  もうその頃には帰宅していた島田家の当主、島田甚吉が玄関に現れ、男と少し喋っていたが、やがて血相を変えた様子で身支度を整え、男と連れ立って出ていったという。  「半刻も経たんうちに、また男が現れっせぇ、次は島田どんの大おっさんが出て行った」  キチの話を聞いているうちに、正助の顔色が僅かに変わった。  キチの話を要約すると、つまりは、こうだ。  黄昏時に奇妙な男が島田家を訪れ、最初は当主の甚吉が男に連れ出された。  そのすぐ後、また同じ男が島田家に現れ、次は大奥さん、甚吉の母親が連れ出された。  先に連れ出された二人が戻らぬうちに、また同じ男が現れ、最後に若奥さん、甚吉の妻が呼び出されたのだという。  「太吉は小せし、じきに寝っ時間じゃっで一緒に連れてゆっことはできらんなゆっせぇ、若おっさんがうちに預けて行ったんじゃ」    まだ小さな男の子、太吉をお隣の大久保家に預け、若奥さんは男に連れてゆかれた。    「なんでん、甚吉どんの名付け親ん方が危篤で、いっき会おごたっちゆちょっで来て欲しかち言われたそうど」  太吉を大久保家に預けるにあたり、若い母親は説明をしたという。  甚吉の名付け親である人が病気を悪化させ、危篤状態になった。すぐに会いたいというので来て欲しい、と見知らぬ男が告げに来た。  それで、まずは甚吉が駆けつけた。  次に、その名付け親の人が、甚吉の老いた母にも会いたい、と言い出したので、それを伝えに来た。  そして今度は、甚吉の妻である自分にも話したいことがあると言われるから、ぜひ来てほしいと言われたという。  その時点で太吉は眠気に耐え切れず、ぐずっていた。  大久保家の女たちは、ぐずる太吉を快く預かった。その時点で、こんな夜更けに呼び出されて島田さんも大変なことだと同情していたという。  おっかさんはすぐに戻るから、おばさんやねえさんたちと一緒に休もうと太吉に言い聞かせ、あやしていたのだが。  「ちょうど、兄いが帰る半刻ほど前のことじゃ」  キチの顔色がさらに悪くなった。声の震えが大きくなった。蝋燭の火が揺れ、キチの顔の陰影も不安定に揺れた。  あばら家の外ではぴゅうぴゅうと嫌な音を立てて木枯らしが荒れており、家全体ががたがたと音を立てている。そこに、太吉の細い泣き声が混じるのだった。  「変な男がうちに来っせぇ、今度は太吉を連れてゆっちゆ」  島田家を訪れては、家人を連れ去って言った奇妙な男が、たった今ほど、大久保家に現れたのだという。  男は、今度は幼い太吉まで連れてゆきたいと申し出た。  時刻は亥の刻を回っている。  大久保家の女たちは、流石にこれはおかしいと思った。  「太吉は病気じゃっでいけもはん。どうぞお帰りになりたもんせ」  「人を呼ぶど」  女だてらに気丈を装い、寝静まった近所を起こす勢いで男を追い払った。  男はしばらく粘ったが、どうしても大久保家の女たちが太吉を出さないのを見て取って、闇夜の雪の中を引き返していったという。そのすぐ後に正助が帰宅した。だから、降り続く雪の中で、未だくっきりと男の足跡が大久保家の玄関の前に残っていたのである。  「兄い、こんたおかしか。まさか、甚吉どんたちん身にないかあったんじゃね」  キチは正助の袂に掴みかからんばかりになっている。今にも燭台を取り落としそうだ。  太吉も不吉な予感があるのかもしれない。泣き声は次第に大きくなっていった。
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