第一部 青合羽

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【その二 その男】  来る。  「あの者」が、ここに。  わたしは、その者が嫌いである。なぜなら、その者が近づくと、わたしの霊力が何故か抑え込まれ、普段の半分以下になってしまうようだからだ。  (陰陽道に関わるものでもなし、ただの下級武士に過ぎぬ男なのだが)  背が高くやせぎすで、彫の深い顔立ちをしたその者は、目に見えない者の存在をはなから信じない。信じないというより毛嫌いしている。  理が勝ちすぎた男である。しかし頭脳は誰よりも明晰で、確かに彼は、今後の日本に欠かす事のできない人材なのだった。    (それにしても、この男が近づくと、どうにも力が妨害される)  大久保正助。 **  わたしは、伏見月子。  八咫烏の使命を受けた身である。  わたしが護り導かねばならない男はただ一人。陰陽道の扉により、京から薩摩に移動したその日、早くも「彼」を見つけた。  さぞ探し出すのに骨が折れるだろうと思っていたが、そうではなかった。  日本の国は全体的に闇がかかっており、なかでも薩摩の闇は深く暗い。その深淵の中で、一際激しく輝く赤い光がある。  その光を放つのが、まさしく「彼」なのだった。  薩摩に足を踏み入れた時から、その赤い異様な光にわたしは気づいた。この男こそ、わたしの使命であることを瞬時に悟った。  これほどまでの強烈な魂は、長い歴史の中でも滅多に見られるものではないだろう。  陰陽五行の理で見ると、その男がただの者ではないことは明白だった。    深い闇の中で輝く赤いものは、しかし、今は固いつぼみのままである。  このつぼみは頑固で、まるで花開くことを拒むかのようだ。つぼみでいる今ですら、激しく輝いているのだから、開花した時の凄まじさはいかなるものだろうと思う。  その男は、薩摩の下級武士の中でも底辺の貧しさの中で生まれ育った。  下加治屋町という、特に貧しい集落の中で、育つにつれ頭角を現したようだ。現時点で彼は、下加治屋町の若い衆や子供らが集まって学び鍛錬をする「郷中」の長であり、誰からも頼りにされる立場となっていた。  彼は郡方書役助という役職を得ているが、これは農民からの取り立ての管理係である。将来有望な立場ではないし、もとから貧しい彼の家ときたら、貧乏に拍車をかけるような大家族であったし、なぜか人を惹きつけ頼られるという以外は、まるでうだつが上がらない男なのだった。  その彼を、わたしは護っている。  もちろん、側につききりでいるわけではない。  わたしの体自体は、誓光寺に預けてある。この寺の住職は八咫烏とつながりがあり、ある程度の霊力を授かり受けている。  老いた住職は一人で寺を護っており、滅多に人が訪れることはなかった。  わたしは古寺の奥、小さな一間を借りて、薩摩に居を構えた。  そこで生活をしながら、いつでも体を抜け出して、八咫烏の使命のために動くことができるのである。  今も、誓光寺の奥の間には、陰陽師の装束に身を固めたわたしの身体がある。印を組み、目を閉じた姿で石のように固まっているはずである。  そうして、その身体を抜け出した霊体の方が、貧しい下加治屋町の、西郷吉之助の家に入り込んでいるのだった。  西郷吉之助というのが、わたしの護り導くべき男の名である。
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