第一部 青合羽

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 その晩、下加治屋町は完全なる闇に覆われており、霊能力の技を持たない者ならば、なるべくなら関わらないほうが無難な相手に侵食されていたのである。  できれば何事もなければ良いと思っていたのだが、夜更け、吉之助がちびた蝋燭に向かい開いていた書物を閉じて寝ようとしていた時に、外から呼び声が聞こえたのだった。  「吉どん」    雨戸を叩く音と共に、大久保正助の声が聞こえた。  吉之助は広い肩を一瞬、竦めた。激しい感情を持ちながら、屈強な体の外に表情をなかなか出さない男なのである。僅かに肩を竦めただけだが、吉之助としては大いに驚いていた。    時刻は亥の刻を過ぎようとしている。  おまけに、酷く凍える晩だ。    「吉どん、おいだ、正助や」  また聞こえた。  吉之助はのそりと立ち上がると、足音を忍ばせて縁に出た。  奥の部屋では兄弟らが体を寄せ合って寝ているのだ。起こすわけにはいかない。  ごとりと雨戸を開くと、蓑に粉雪を被った正助が立っていた。  吉之助は太い眉をひそめた。雪の中に立つ友人を見かねて家の中に入れようとしたが、正助はかぶりを振り、冷たい手を伸ばして吉之助の腕を掴んだ。  「青合羽が出た。島田ん家がやられた」  正助はそう言った。白い息が闇夜の寒気の中にのぼる。  吉之助は大きな目を細め、青合羽ァ、と、呟いた。  正助ははっとして吉之助を見直した。おはんはないも知らんのか、と口走った。まあ、中に入らんかと吉之助が勧めるのを拒み、とにかく一緒に来てくれるよう口早に訴えた。  「そう暢気なこともゆていられん。恐らく一家全滅や。おいのうちまで来え。歩きながら話そう」  何時だと思っている、この雪の中をか、と、吉之助は呆れたが、正助は動きを止めなかった。  さっと縁側から西郷家にあがりこむと、勝手知ったるなんとやらで、吉之助の大きな雨具を探し出した。ばさりと親友の身体に防寒具を着けさせると、さあ行こう、と、太い腕を両手でつかんで引いたのである。
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