36 細田歩

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36 細田歩

「え? 細田?」  飾り板ガラスが嵌められた引戸を開いて、少年は驚いた顔をした。吐き出す息が白くなり始めた冬の夕方。突然の訪問に困惑するのは当然だ。この押鴨良輔という少年とは、殆ど会話した記憶がない。 「泊めて欲しいんだけど」  俺の言葉に、押鴨はますます困惑の顔をする。逡巡するような顔をして、団らんの気配のする室内を一度だけ振り返った。居間では家人が野球中継でも観ているのか、テレビの音と話し声が聞こえる。穏やかな空気だった。  誰もが顔見知りのような、小さな田舎の港町だった。海の町特有の土地の狭さで、家々は塀などはなく軒を連ねて建っている。海から少し離れた場所でも漂う磯の香りは、どこか気鬱にさせた。 「――っと、急に……そんなことを言われても……」  押鴨がそう言っても、気落ちしなかったのは、その回答が解っていたからだ。学区の違いで、押鴨と同じ学校に通うようになったのは中学からだった。会話をしたことは一度もなく、俺が訪ねた理由も、単純に家を知っていたから。それも、たまたまだった。押鴨の家は昔酒屋だったコンビニの目の前で、コンビニを利用しているときに目についただけだった。それ以上の理由はない。何しろ、名前も表札を見て初めて知ったくらいだった。押鴨とはクラスメイトだったが、不登校気味の自分はクラスメイトの半分の名前を知らなかった。  だから押鴨が『細田』と呼んだのが意外だった。 (俺の名前、知ってたんだな)  ずずっと鼻を啜って、精悍な顔立ちの少年を見る。自分の名前を知っているのが、意外だった。  細田歩。というのが、この当時の俺の名前だ。タヌキみたいな垂れた眼と、少し丸い鼻。どちらかというと『面白い顔』に分類されるこの顔を嫌いになったのは母親のせいで、この頃は家庭内はボロボロだった。  家に居たくない。母親の暴言を聞きたくない。父親には無視を決め込まれている。そんな感じで、家から遠ざかるように幼馴染みの家を転々とし、ついに頼れる相手が居なくなり、ただ知っていたというだけで、ダメ元で押鴨の家のチャイムを鳴らした。 「良いんだ。急に悪い」 「あっ、細田」  申し訳ないような、困ったような顔をする押鴨に、俺は敢えて笑って見せる。 「大丈夫、大丈夫。気にしないで」 「……その、家に帰りづらいのか?」  本当は「そう」だったけれど、心配そうな顔をしている押鴨に、強がりを見せたくなった。押鴨の家は幸せそうで、とても普通に見えて、不幸そうに見える自分が嫌だった。 「いや、別に理由はないんだよね。大丈夫、帰るから」 「……う、ん」  この時、本当に帰っていたら、未来は変わっていたかもしれない。押鴨に泣きついて、一夜の情けを貰っていたら、人生は別のものになっただろう。  押鴨と別れ、向かいのコンビニに行った。押鴨は長いこと俺が帰るのを見ていたようだったが、やがて扉の向こうに消えていった。 (どうしようかな)  漫画を立ち読みして過ごしていたが、店員の嫌そうな顔に缶のココアを買って外に出る。ポケットには千円ちょっとあったけれど、カラオケもないような田舎町で、中学生の自分には行き場所がなかった。  長いこと、コンビニの駐車場で立っていた。カイロを買おうか迷っていたところに、男が、声をかけた。 「どうしたの? 家出? 良かったら、家に来る?」  男の声に、顔を上げた。    ◆   ◆   ◆ 「ごめん……」  良輔の顔は手で覆われていて、表情は解らなかった。「ごめん」という言葉を、どんな気持ちで、どんな意味で言ったのか解らない。  良輔は、『押鴨良輔』だった。  あまりにも関係性がなくて、忘れ去っていた記憶。クラスメイトの顔も名前もろくに知らない薄情者ゆえに、故郷の記憶など置き去りにしてきたゆえに、すべて忘れていた。おぼろげで、曖昧で、薄れていた記憶の、奥深く。 (どういう、こと)  混乱して、頭がおかしくなりそうだった。良輔が、幼馴染み? 中学の同級生? 同郷の――。  あまりにも理解できないのに、どこか一致する符号が、パズルのピースのように組み上がっていく。  ハートの痣を知っていたこと。入社式で初めて声を掛けてきたこと。  ずっと。  ずっと、知っていたのか?  じゃあ、何で、言わなかったんだ。 「っ、渡瀬……」  良輔が顔を上げた。  伸ばされた手を、咄嗟に振り払う。 「――」  傷ついた顔に、ビクッと肩が揺れる。傷ついたのは、俺じゃないのか? どうして、お前が傷ついた顔をするんだよ。  理解できなくて、今までのことも全部、偽物のように思えて、ショックで、怖くて、何も聞きたくなかった。 「渡瀬、俺――」 「聞きたくない!」  耳を塞いで叫んだ俺に、良輔がぐっと言葉を詰まらせる。 「わ、解んない! 解んない! 俺っ……」 「渡……っ」  頭の中がぐちゃぐちゃだった。 「――っ」  俺は良輔の肩を突飛ばし、部屋を飛び出した。  何もかも、解らなくなった。良輔のことも、好きだったはずの気持ちも。  何も、かも。
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