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「『黄泉の女神は闇の色の瞳をもつ』あなたさまは、この国の神話をご存知ない?」
「この中つ国にそれを知らぬ者はいないだろう」
無造作にあぐらをかいた若者は、臆することなくそう言った。
「そうでしょうね」
押し殺した固い声で、少女は言う。
「そうだとしても。わたくしの瞳を見るくら
いの命知らずなら、死をも恐れないのでしょう」
炎に照らされた少女の影は、背後の幕に黒々とたなびく。夜明け前の陣は静かだった。まるで、世界に取り残されたかのように、奇妙な感覚が襲ってくる。
「ーー火を放ったのはわたくしです」
そう、自分が火を放ったのだ。
真夜中の兵たちの反乱。取り乱す父の怒号を遠く聞きながら、枕元の灯を持って立ち上がり、手を放した。床に落ちた青銅の鈍い音。そして、燃え広がる赤い波を、たしかにこの目で見た。ーーようやく、そうできたのだ。ほっとしたような、寂しいような思いが満ちてきた。
「だから、この国と王はあなたによって滅ぼされたのではない。わたくしが手にかけたのです」
そう、自分が終わらせた。終わらせたはずだった。
「ちがう」
若者は静かに制した。まるで、あの時のように。
「おれは、たしかに火矢を射かけた」
火の海のなかで、突如手をひかれた。だれが自分を助けようとするのだろう。どうして、そうするのだろう。少女は困惑していた。
「あんたの瞳が火を放つわけ、ないだろう」
若者は、幼い子どもをなだめるような口調で、ゆっくりと言った。
「あんたの瞳が、父王を殺し、大切なものもすべて焼き払い、そんな悲しいことをするわけがないだろう」
「いいえ。わたくしが殺しました」
ぐっと瞳に力をこめる。
「父を恨んでいました。わたくしを生んだから母は死んだのだと、わたくしが生まれたから、祖母は病に倒れたのだと、父はそう言ってわたくしを邪険に扱いました。座敷牢に籠められて育ったわたくしが、それでも生かされ続けたのは、政のため、婚姻の駒として使うためです」
漆黒の瞳。深く闇をたたえ、黒々としていて、瞳孔のない、そんな瞳。恐れられ、忌み嫌われる瞳。しかし、若者は目をそらさない。刹那にひるみそうになった少女は、拳を握りしめた。
「――『魔眼』をもつわたくしは、きっとよい刺客となるでしょう」
なぜ、恐れないのだろう。この若者は。
「『魔眼』は黄泉の女神の闇色の瞳。なにものにも死をもたらす魔の瞳です。念じて見つめれば、相手は病を得ます。このような宮一つ焼き払うくらいは、容易なのです」
ふいに目頭が熱くなった。
「なにものにも死をもたらすものです。あなたさまも例外ではありません」
「おれはもう、一度死んでいるよ」
それはなぜか、胸に迫る響きだった。
「兵だったおれは、あんたの父親に踊らされて戦に行った。むざんなものばかり見てきたさ」
火がはぜて、静寂がいっそう深まった。
「もう、これから一つ二つ罪がふえたって、どうってことない。兵は戦場で、首の数を競う。それが正義だった。あたりまえのように人を殺す。やらなければ殺されるから、そうされる前に殺す。たったそれだけの、生きるための行為のなかに、それほど意味があったとは思えない」
ふと、それがものすごく寂しい言葉だと思った。
「なにが正義かわからない。おれたちは、だれかに手綱をとられて生きることに、疑問すら抱いてこなかった」
『魔眼』をもつゆえに『魔眼』として生きなければならない息苦しさを、自分は知っていただろうか。少女は考えた。何の力もないこの瞳に、どうしようもなくまつわるものは、本当に、悲しい偶然と女神の神話ばかりだっただろうか。
「これまでは、自分のために生きようとしてこなかったんだ。そんなこと、思いもよらなかった。だけど………」
炎を映す若者の瞳は、まっすぐ届いたーー『魔眼』だ。
彼もまた、『魔眼』の持ち主だ。自分とはちがう、もっともっと強い力だ。生きようとする力、生きたいという思い。
「あんたは、何度もそうしようとしただろう。目に見えない枷を焼き払おうとしただろう。だれのためでもない。おれたちは、おれたちのために、王を討ち、宮を焼いた。国を滅ぼした」
若者は繰り返した。暁が幕の外の山々を鮮やかに焼いた。
「おれが火をかけたんだ」
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