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ろくがみっつ
柔い毛に顔を埋めることが、どんなに幸せなことかを教えてくれたあの子を連れて行かないで。お願いだからと祈りながら、ぐったりと疲れた身体はいうことを聞かずに足元をふらつかせ、次に詣でる場所を目指す。
神社、教会、ありとあらゆる場所の出向く私を友人は心配し、父は呆れ、ただ母だけが「できることを、しておきなさい」と言う。
対岸の火事。
この言葉をどれほど恨めしく思い、どれほど戻りたいと感じたろう。
家に戻れば、白黒ブチのハチワレがなんとも愛らしい老猫が眠りながら弱々しい息を吐きつつ私の帰りを待っている。子猫だった時分から私はずっと世話をし、共に嬉しいことは分かち合い、悲しいことは慰めあう関係を築きあげていると、我ながら自負していた。
向こうはいかんせん人間の言葉は語れぬが、きっと同じ気持ちと信じて。
なぜ、世間を騒がし、人々にさまざまな思想を植え付けているウイルスの同胞らが愛しくぬくい、尊い生き物までその毒牙をかけようとするんだ。
なぜ、老いたるしんどい身の上に襲いかかろうとするのか。卑怯ではないか。正々堂々ということばを知らないことは、命名白々だ。
理不尽かつどうにもならぬことを思いつつ、鼻の奥はつんと痛くなり、じわりと涙が浮かび出す。
「猫が、随分とお好きなようだ」
不意に声をかけられ、私は振り向く。
そこには分厚い黒い外套を羽織り、黒い革手袋に蝙蝠傘、そしてダークスーツに大きめなリボンタイをつけた男が立っており、にいと口の端だけをあげて不敵な笑みを浮かべている。
「いかにも、家で病に臥せっておりまして、恥ずかしい話ですが神に仏にと救いをもとめる所存。苦しい時のなんとか、というやつです」
ほう、と男は同情するように眉間へ皺をよせ、悲しげな表情を浮かべる。見たことある顔だが、どうにも思い出せない。だからといって名前を訊くという行為も失礼な気がして、口籠ってしまった。
「それはお辛いでしょう。どう過ごされるべきか、よろしければ八卦でもして差し上げましょうか」
「結構、病に八卦はよくないと聞いています。まじないでもご存知なら別ですが、それだって薬や検査結果や手術のほうが正確でしょうに」
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