第四十二話『契約の終わり』

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「何となく。でも大丈夫。結構前に気付いてて、時間はたくさんあったから怖くないよ」 「………………」  強がりな台詞はやはりバレてしまったかもしれない。だが、彼には使命を果たしてもらわなければならない。  きっと記憶の削除をしなければバッド君は天使としての立場が危うくなるだろう。  みる香に本名を伝えたことで、少なからずバッド君の昇格は一つ遠のいたのだ。それなら記憶の削除はきちんとやり遂げて貰わなければ困る。  バッド君には、天界で幸せに暮らしてほしいからだ。記憶の一つや二つ、消されても悔いはない。  心の奥深くで、彼との未来を望む気持ちはあった。しかしそれを望んではならない。天使と人間は、結ばれるべきではないのだ。 「バッド君、いちる君……」  みる香は黙り込むバッド君――いちるにそう呼びかける。  彼の本名を呼ぶのはどこかくすぐったく、しかし自分だけが特別に教えてもらえたことに対しての溢れんばかりの幸せな思いがみる香の心を穏やかにしていた。 「いちる君が私を、ときどきでも思い出してくれたら私はそれで嬉しいよ。だから迷わないでよ」 「……みる香ちゃん」 「いちる君と両思いになれた事本当に嬉しかった。でもいちる君は昇格を目指して将来はいい暮らしを目指すんでしょう? 私を好きになってくれた気持ちは、契約を解除したら忘れてね」  本当は忘れてなどほしくはない。だが、二人の結ばれる未来はどの道ないのだ。  それにいちる自身もそれをよく分かっている筈だった。そんな気持ちでみる香は言の葉を送っていた。  いちるはそれから少し間を置いて気持ちを固めたのかこちらの目を見据えた。 「……君の言う通り、記憶をね、消さなくちゃいけないんだ」  みる香は真っ直ぐにいちるを見据え、彼の言葉を聞く。 「本当は契約したその日に言わなくちゃいけなかった事なんだけど……初日は忘れてたんだ。だけどそれ以降は、分かっていながら君に話したくなかった」  そう言ってみる香の右手をそっと握り始める。体温が、こちらにまで伝わってくるほどに温かい。 「君を好きになって気付いたんだよ。悲しませたくないって。だから最後の最後まで言いたくなかったんだ」  そこまで言葉を出したいちるはみる香の手の甲にそっと口づけを落とす。  彼の唇の体温がみる香の右手から伝わり、その行為に、気恥ずかしさ以上にもの悲しい思いが勝る。  いちるはそのまま二度目のキスをみる香の手の甲に落とすと、今度は堅苦しい言葉を告げる。 「森村みる香との契約を終了する事、ここに誓います」
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