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「桐生くん」
次の日、16時きっかりに楠田さんは自分が指定した場所にやってきた。夏が通り過ぎて少しだけ肌寒い。
「最近、寒いね。セーター出さなきゃ、」
「……今朝、家から出た時にさ」
楠田さんの言葉を遮った。彼女は身じろぎをして僕を見た。
「蝉がいたんだ。まだ死んでなくて、でももう死にそうな蝉。鳴く気力もなくて地面に這い蹲ってるだけのやつ」
「うん」
「まるで僕みたいだなって思った」
「…………」
昨日、僕は全部思い出した。記憶泥棒のことも。
盗まれたのは、コンクールの記憶と――小さな頃からのゆめ。
何もない。喜びも楽しさもない代わりに、苦しみも辛さもない。そんな昨日までの自分が喉から手が出るほどに恋しい。
クーリングオフなんてクソくらえ。
「楠田さんはさ」
「なに」
「僕のことどう思った? 正直に言っていいよ」
僕の何気ない言の葉。ザァ、と風が吹いて楠田さんの髪が揺れた。
秋の匂い。ああ、もう夏は終わる。
蝉は落ちて死ぬ。
「……桐生くんはわがままだよ」
いつもは茶目っ気たっぷりの楠田さんの声が――微かに、揺れた。
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