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「何が」
僕の瞳が気に喰わないとでもいうように楠田さんは僕を睨みつける。
「……だって、やりたいことがあって、得意なこともあって、それなのに――何、」
コップから水が溢れ出すみたいに、楠田さんの感情が頬を滑って落ちていく。
「あたしなんて――あたしなんてっ、やりたいことも得意なことも見つからない!」
初めて見せた涙は止め処ない濁流。はぁっ、と荒い呼気の音。強い息の輪郭。生きてる音。
「桐生くんは自分のことを八日目の蝉みたいに地面に這い蹲ってなすがままの存在だってそう言ったけど」
楠田さんは言葉を止めない。いつもの彼女が仮初かのように眉根を寄せて感情を吐露する。
「もし桐生くんが本当に八日目の蝉なら――あたしは、孵ることすら叶わなかった愚かな蛹だよ」
鳴く快感も、飛ぶ喜びも、出来たことが出来なくなる苦しみも、本物は、なにも――知らない。
「辛かったり苦しかったり、時には生きていくのを諦めてしまいそうになる記憶は、痛くてしんどいのかもしれない。だけどそれは何かを必死で頑張っている証じゃんか。そんな桐生くんのことがずっと羨ましかった。ずるい、と思った」
僕が失くした記憶。ピアノのコンクールで知った自分の無力さ。今までの頑張りが全部否定されるような絶望。狂ったように浴びせられる嘲笑と批判。
それを――羨ましいだって?
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