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「それ以上叩くな。おまえ、今朝会社にも来ただろう?」
タシロだ。
耳をそばだてると、男が「知りあいか?」と、そばにいる人物に小さな声で問いただすのが聞こえた。
そこに麗花もいるのだ、とわかった。
「おまえはなんなんだ? なんでつきまとう?」
「おまえこそなんだ。ここは俺の家だぞ」
状況から、まわりはこの男のことを高橋敏郎だと思っているらしい、ということはもう理解できたが、敏郎の頭はまだ、そんな理不尽を受け入れまいとしていた。
「麗花、そこにいるのは俺じゃない。俺が本物の敏郎だ」
敏郎は麗花に直接語りかけた。
「去年の……あかりのお遊戯会の役は、猿の役だった……」
今年八歳になった娘のあかりの話をした。本物の敏郎でなければわからないような話をして、妻の心を動かそうとした。
「あかりは妖精の役がよかったっ言ってたけど、お猿の衣装着てるのもかわいかったよな」
努めて親しみ深く話そうとし、舞台の上で赤いお尻を振ってたのを思い出して、口もとがほころんだ。
あかりが産まれたとき、小さな手でぎゅっと握り返してきた。やわらかくて温かい、あの感触。花火大会に行ったとき、麗花の浴衣のうなじが綺麗だった。バーベキューに行ったときは、着火剤がなくて、火を起こすのが大変だった。だけど、楽しかった。
家族の思い出を掘り起こそうとするうちに、さまざまな思いが敏郎の胸に去来した。
「最初の誕生日にもらったのは、オイルライターだった。俺の名前が入ってるやつ。麗花の好きな映画は、『ショーシャンクの空に』だ。麗花は映画観たあと、しょちゅう文句ばっかり言ってるから、初めは映画嫌いなのかと思ってたけど、逆で、好きだから言いたいことがあって……」
話しているうちに、目頭が熱くなり、胸が締めつけられた。
そのときの気持ちが蘇って、ここ数年来、冷めつつあった愛情が、再び燃えあがったような気さえした。
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