羨望

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失いかけているものが、急にかけがえのない、価値あるものに思えてきた。 こんな気持ちは俺にしかわからない。 泥棒め。おまえは俺の人生を盗んだ! この家も、家旅も、俺のもんだぞ! 家のローンだって今まで十年近く俺が払ってきたんだ。 おまえになにがわかるんだよ! 「俺のもの、返せよ」 家族にも伝わっているはずだ。 なにも知らないくせに、勝手に欲しがりやがって! 「初めてデートに行った場所覚えてるか? こんなこと、偽物のおまえには、わかんないよな⁉︎」 敏郎の声に力がこもった。 一瞬しんとしたカーテンの向こうから、くぐもった男の声が答えた。 「横浜の赤レンガ倉庫と、ブリキのおもちゃ博物館だよ」 そんなばかな。 「なんで知ってる?」 俺のこと調べたのか? 横で麗花が助け舟を出したか? そいつの肩を持つのか。 「俺だって知ってる。もっと知ってる」 麗花はその日、おもちゃ博物館には初めて来たかのようにはしゃいでいたが、後になって、彼女は以前つきあっていた恋人ともそこに来たことがあったとわかったのだ。 しかも何年もつきあったらしい大恋愛した相手とだ。 それから、なんとなく、彼女と距離をとるようになってしまった。そばにいても彼女の本心がわからないような気がした。 子供ができると妻はイライラしてばかりの女になり、家にいるのが居心地悪くなった。 そのうちスナックで飲んで食事もして帰るようになり、妻は夕食を用意しなくなり、自分も遅い時間に帰るのにわざわざ麗花に用意させるのも負任をかけて悪い、と思うようになって、寄り道をしない日でも、コンビニで買って一人で夕飯を食べるのが当たり前になっていた。 そんな風にすれ違っていったんだ。 夫婦の会話も、触れあいも、なくなっていた。娘も自分にはよそよそしい。 「俺が苦労して築きあげたんだぞ! あれも、これも──」 敏郎は怒りのあまり怒鳴って、庭にあった鉢植用の棚を蹴飛ばした。棚が倒れて、麗花の植えた植物の入った鉢が、大きな音をたてて割れた。 隣の家の明かりがついた。 こちらからは見えないカーテンの向こうでは、娘のあかりが身をすくませて、母の腕の中で小さくなっていた。 だしぬけに、カーテンがシャッと開き、暗いガラス越しに男がこちらを見た。 嘘がばれそうになって動揺しているとか、本物を追い出そうと敵意を剥き出しにしている──という風ではない。 それは、自分と家族が得体の知れない脅威にさらされて、恐怖にうろたえている男の顔だった。内心怯えながらも、なんとか体面を保って立ちはだかってる男、という感じだった。 一瞬、鏡に映った敏郎自身の姿を見せられたような気がした。不気味だった。 遠くから、パトカーが来る気配がする。敏郎は隣家の塀に飛びついて、その場から逃げ出した。
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