羨望

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なにも持っていないので、食べるものを買うことすらできなかった。 明るくなってから、ダメもとで銀行に行ってゴネてみても、無駄だった。 郊外の住宅街ではホームレスは目立ちすぎるので、都心のほうに戻った。ほかのホームレスに混じって、公園などで寝泊まりし、廃棄される弁当を食べたり、空き缶を集めて微々たる現金と交換する方法を覚えた。 ほとんど茫然自失のうちに、一週間すぎた。たった数日で十歳くらい老けこんだような気がした。 行くあてもなく街を徘徊するうちに、自然と足は慣れ親しんだ景色を求めて動いていた。 暗い夜道に灯った『春の海』の看板が目に入ったとき、敏郎は足を止めた。 家族さえ自分がわからないのに、春海ママにわかるとは思えなかったが、とにかく見知った顔を見てホッとしたかった。でないと自分の存在自体が、この世から消えてしまいそうな気がした。 それにスナックなら、知らない奴が来ても、不審がられて追い返されることもない。 最近稼いだ小銭をポケットの中で確認し、扉を押した。 ドアベルがカランと鳴って、カウンターの奥で、先客と話していた春海ママが振り向く。 案の定、彼女は敏郎のことをなにも覚えていなかった。 しかし、敏郎が今夜にも首を吊りそうなくらい意気消沈した様子だったので、春海ママはなにか感じとり、気遣わしげに声をかけた。 敏郎はただ「散々な目にあった」といった具合に、あたり障りない曖昧(あいまい)な愚痴をこぼした。 春海ママは慰めるようなことを言い、先客の男もそれに参加して、はげましにかこつけて、俺にもこんな酷いことがあった、あんな酷いことがあった、と自分のことを話しはじめた。
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