羨望

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「そんなわけないだろう! 俺の口座なのに、金をおろせないなんて」 銀行の窓口で男が一人、声を荒らげた。 ちょっとキレ者のサラリーマンといった容貌で、態度のでかい男だった。 まわりの客が驚いて振り返る。 「ですが、高橋様は、本日は身分証もキャッシュカー­ドもお持ちでないようですし……」 「さっき説明したでしょう。盗まれたんですよ、全部」 「でしたら、警察にご相談していただいて──」 警察には話した。だが、全然なにもしてもらえなかった。 本当になにもかも盗まれたというのに。 今から三十八時間前、高橋敏郎(としろう)は、行きつけのスナック『春の海』で、その夜知りあったば­かりの客に、愚痴をこぼしていた。 もともと春海(はるみ)ママ相手にグチる癖があり、ほかの客相手に愚痴を言って絡むことはないのだが、この日初めて見る客のほうが途中で加わってきたのだ。 若い男で、相手の顔色をうかがうような目で、猫背でうなずくクセがある。ボンクラそうな顔つきだが、それがかえって相手を警戒させず、すっと懐に入ってくるようなところがあった。 客同士で話が盛り上がりはじめたのを見計って、春海ママはその場を離れて、料理の仕込みをしたり、ほかの客の相手をしはじめた。 この店は、春海ママの感じがいいのはもちろんだが、一番気に入っている理由は、つまみが安くておいしいことだ。敏郎の前には、しっかり食べごたえのあるつまみが定食並みに並んでいた。 話し相手は、タシロとかいう名前だったと思うが、ウロ覚えだ。 自分が今抱えている出来の悪い部下に、なんとなく似てい­る、と敏郎は思った。 おとなしくて、自信なげな覇気のない返事をして、そのくせこちらが注意すると、反抗的な目を投げかけてくる。でもその男は、部下とは違い、変にひねたところがなく、相手をおだてるのがうまかった。 「でも、高橋さんはお仕事で成功されてるじゃないですか。プロジェクトリーダーなんてすごいっすよ」 「俺から仕事とったら、なにも残らないよ」 成功なんて……。この歳で、それくらいの役を任されるのは普通だ。 だがこの部下のような顔をした男はよくわかっていない。 敏郎は、自分より活躍している同期や、今では独立して夢を追ってる同期のことを考えた。 「マイホームも持ってるんでしょう?」 俺はアパートでいいと思ったのに、麗花(れいか)が欲しがって買った、あの家。俺はあと二十五年もローンに縛られるのだ。 「仕方ないですよ。みんなが高橋さんみたいに優秀なわけじゃないんですから」 この言葉は敏郎の自尊心をくすぐった。 成功しているとでも思わなければ、やっていられない。努力に見合ったものを手に入れていると思わなければ── 「俺が就職したときはまだ就職氷河期でさぁ、死ぬほど面接しまくって、上からクソミソに言われても、喰らいついてかなきゃやっていけなかったワケ。嫌な飲み会でもお酌して、パワハラされるのが当たり前だよ。それが今は働き方改革だとかなんだとか。デジタ­ルネイティヴの感性をとり入れるとか、やたら新入社員をちやほやして……」 「できることなら、人生とりかえたいですか?」 男の目がきらりと妖しく光った。 敏郎はそちらに目もくれずに、うんざりしたようにのびをした。 「──ったく。できることなら……」 その瞬間、突然閃光に包まれて、あたりがまっ白になった。
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