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「...これ」
俯き加減にはにかみながら、彼がテーブルに小さな箱を置いた。時計の針の進む音がやたらと大きく感じるリビングで、私達は向かい合って座っていた。
こんなのいつぶりだろう。ぼんやりと考える頭が、それでもしっかりと目の前の離婚届の空欄を埋め切った後のことだった。
「何...これ」
私の問いに、彼はその小さな箱をスッと私の方へと押した。開けてみてということなのだろう。彼のそういうちょっとしたことを言葉にしてくれない所が、私はずっと嫌だった。きっと彼は言わなくても伝わると思っているんだろう。けれどそんな小さな不満を、こんなにも積もってもなお言葉にできていない私も、人のことを言えたものではないのだろうから。
だから私は、黙ってその箱に手を伸ばした。ひんやりと冷たいそれを、ゆっくりと開いた。そこには透明なプラスチックでできたような指輪が二つ並んでいた。
「離婚指輪」
「...へ?」
「君がさ、残念がってたから。僕がプロポーズの時に指輪を用意しなかったこと。今ならほら...サイズだってわかるから」
あれから。私達はお互いについてたくさん知っていった。
それなのに、駄目だった。
それだから、駄目だった。
「...そういうところだよ」
力なく口をついて出た言葉は、別に言わなくたって良かったように思う。こうやって毒ばかりが大切なものを押しのけて零れ落ちていく。その度に私は、自分のことが嫌になるのに。
「そうだよね」
それでも彼は、あのふにゃっとした顔で笑うのだ。彼のそういうところが...私は嫌いで、好きだった。
「これね、離婚する日にお互いはめあって、円満な別れを誓うための指輪なんだって。後腐れないように、眠ったらするっと溶けて消えるんだってよ。面白いでしょ?」
そう言うと彼はやってみようよと言うように、二つ並んだ指輪のうち小さな方をつまみ上げた。結婚式も指輪交換もしなかった私達。彼のその仕草に、今頃になって私の心さきゅんと音を立てた。今更のそれを、私はまた心の奥に押し込める。
「じゃあ、はめてよ」
こんな日さえ、可愛いことの一つも言えない。
こんな日だから、可愛いことの一つも言わない。
考えているうちに、指輪は想像以上に何ということなく、私の左手の薬指にはめられた。
こんなもんだよと教えてあげたくて、私も彼の指輪を手に取った。流れるようにそれを彼の左手の薬指にはめれば、彼は照れたように笑った。
「こんな感じなんだね」
見たかったものが、聞きたかった言葉が、経験したかったことが...もうそうでなくなってしまってから手元に訪れた時、人は虚しい気持ちになるのだと知った。
そしてきっと彼は、目の前ではにかむ彼は今、そんなことを感じちゃいない。私達はいつも一緒にいても、どこか別のものを見て、別のことを感じ、別の表情を浮かべていた。だから私はいつも不安で、彼の言葉が欲しかったのかもしれない。今更そんなことを思う。
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