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first pierce
早咲きの桜が舞う。
3年前に着たときは深い紺色をしていた制服が、
今は青に近い藍色をしていて、
寂しげに散りゆく花びらとよく似合っていた。
半年前まで黄色いボールを握っていたハンドコート。
卒業試合が終わった今はガランとしている。
私は元副部長という立場を放棄して、
送別会への遅刻と不参加になるかもしれないことを
許してもらい、
洗車されたばかりの白いレクサスの運転席の窓を
人差し指の爪で三回鳴らした。
「おぉ。何でまだいるの。送別会は?」
「ねぇ先生、約束、覚えてますか?」
先生はハンドボール部顧問の教え子で、
週に三回か四回はコーチングのアシストを
しに来てくれていた大学生だ。
「先生」は、いつか教員になるつもりだという
先生への応援を込めて呼ぶ私たち部員が付けた
あだ名みたいなもので、
先生は、正確には先生ではない。
一人の部員に肩入れせず、
一人一人に合う言い方でみんなに同じことを教える。
一人に教えたことは全員に共有する。
指導者にありがちな贔屓というものを
全くしない人だった。
そんな先生だから、
私もただの一部員にすぎないと分かってはいながら、
私は彼にある約束を取り付けていた。
「やくそく?」
先生が、何のことやら分からないと言う顔をする。
きっと本当に覚えていないんだろうな、と思う。
「ピアス、俺が開けてやるよ! って言ったやん」
「あれ本気かよ、冗談のつもりやったのに」
「男に二言はない、ですよ。
ピアッサー持ってるから先生んちで開けてよ」
一生塞がない穴に刺さる三百円の金属を、
親指と人差し指でクルクルと回す。
この部屋は、少し寒い。
「ほら、そこ座れ。開けたらすぐ出てけよー」
「分かってますって。分かってるから、先生も覚悟決めて」
先生は、私の耳にピアスを開けるその時以外、
一度も私の肌に触れなかった。
現役の間も、引退してから何度か会ったときも、
あの日も。
先生はただ、先生のままで、
一週間後ロンドンへ発った。
あの日、先生んちで、と指定した私を、
先生は家に招かなかった。
頼んでおいて開け方も知らなかった私に、
俺が持ってなかったらどうするつもりだったんだと、
穴の位置に印を付けるための水性マーカーを、
助手席の前にあるボックスから取り出した。
こんなとこじゃ危ないんやけどなぁ、と
溜息をつきながら、愛車のレクサスの後部座席で、
ピアッサーがバチンという音を鳴らした。
消毒くらい自分でやれよ、と、
消毒液を投げてよこして、
その指でティッシュペーパーの位置を示した。
最後に、卒業おめでとうな、
どこ行っても応援してるから頑張れよ、と言って、
私を車から追い出した。
先生は知らない。
あの日勇気がなくて渡せなかった手紙を渡すために、私がもう一度あのレクサスに戻ろうとしたことも。
そのとき少し泣いていた先生の弱さを知って、
私が手紙を渡さず引き返したことも。
私がその手紙で、何を伝えようとしていたのかも。
先生は、きっと、何も知らない。
知らないから、ちゃんと「先生」として、
私の前から去っていった。
『私の言葉なんて届かないって
分かってるから、言います。
先生、好き、行かないで』
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