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「彼はただ優しい、優しい人だよ。草花が好きで、音楽と芸術を愛してて。手先が器用で」
ユーリィは現在、キーウ近郊の街に住んでいる。そしてもはや国外へは出られない。なぜって大統領がほとんどのウクライナ男性の国外脱出を止めているからだ。
「でもどのみち、ユーリィは家をそんなに長く空けられないの。お母さんが難病で、どんどん動けなくなってきてたから」
「えっなに。彼、介護してるの?」
じゃあ結婚してないのと衣吹が聞くと、
「そんなの無理だよ。お母さんの世話と絵を描くので毎日手一杯だって言ってたもん」
疫病が流行り始めるずいぶん前から、彼に人並みの余裕はなかったはずだと花南は首をふった。
「だいたい彼は絵描きで、とても銃で他人を撃てるような人じゃない。なのになんで……」
つかのま重たい沈黙が落ちる。
そうか、だからこの子は眠れなくなったのだと衣吹は思う。大方の日本人とちがって、花南とウクライナは近しい。当人にとって八千キロ先で戦争が起きたことは、隣県で災害が起きたのにも等しい一大事だったのだ。
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