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花南は猫のように甘えた声を出した。彼女は世田谷のマンションに住んでいる。悠々自適の一人暮らし。ああ、こんなふうに誘われたら断れる男なんてあまりいないだろうな。
「心配しなくても、もうあの人出て行ったから。今日は金曜日だし。ねっ、いいでしょ?」
おかしい。衣吹は慌てた。この二年、疫病騒ぎでほとんど食事しなかったけれど、以前からこの子はこんな性格だったろうか。
思ったままを腹に溜めず率直に言葉にするのは花南が帰国子女だからだ。――私ってさぁ、どうも向こうで教育を受けたせいか、考え方も感じ方も日本人っぽくないみたい。以前そう本人も言っていた。
だけど花南は金を男に貢いだり、金魚に先立たれたからって酒に溺れる女じゃなかったはずだ。よほど寂しいのか、ここでは話せないなにかをぶちまけたいのか。たぶん両方かもしれない。
「……わかった。ちょっと待って」
少し迷った末、衣吹は鞄から携帯を取り出して弟とショッピングモールに行く予定をキャンセルした。明日は母の誕生日プレゼントを物色しにいく予定だったのである。
恋人不在歴七年、横浜で実家暮らしの衣吹にとって、母は良き相談相手で安らぐ同居人だ。だから今や家族イベントは槍がふろうとはずせない重要タスクなのだが。
それでもこの夜、衣吹は血の繋がらない友の要求を優先させた。――だってこれはただの勘だけれど。おそらくこの女は二十八才の誕生日を目前にして溺れかかっている。空っぽになった部屋の中、たった独りで。
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