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第三十五話 覚悟と信念
「暗い夜道を生き抜く覚悟です」
旗はキッパリとした声で即答した。まるで、自分の言葉のように。
「最初、私は彼の弟子入りを断りました。若気の至りで後悔してほしくはなかったのです。だが彼は私にこう言ったのです。自分は親に捨てられたと分かった時に夜道を歩く覚悟をしたのだと。
この先どこまで行ってもその事実は変わらないが、暗い夜道だとしたら、せめて自分で明かりを灯したいと。それがあいつの覚悟と信念でした。
刺青は本来誰かに見せびらかす様なものではありません。己が己だけに刻む、痛みと引き換えに手にする覚悟と信念です。
日本の刺青は海外のタトゥーとは成り立ちが違います。ヤクザ者との関わりが深いのも否定できません。
日本に暮らす限り、明るい場所で人の目に触れれば刺青者だと一生後ろ指をさされるものでもあります。
それを私は差別だとは思わない。
だからこそ、その覚悟を背負って刺青は入れられるものだからです。
そして刺青はそう言う暗い場所に咲くからこそ妖しく美しいのだと私は思います。
無論それは私個人の信条と美学ですから、他の人達の考え方がどうなのかは分かりません。だが、悠也はそれを納得した上で刺青を背中に入れ、彫師になろうと覚悟を決めたのです。私が五十年かけて悟った事を、十八歳の悠也はすでに分かっていた。だから彼を本気で仕込んでみようと思ったのです」
自分のことをあまり話すことのなかった鳳が、一心に彫師になりたい心情を、切々と旗に訴えたのだと思うと、その思いの強さが撫川の胸を締め付けた。
自分の背負った宿命に対してそこまでストイックに鳳は突き詰めていた事を初めて知ったのだ。
鳳の宿命は、同じ境遇の撫川の宿命でもある筈なのに、自分はこんな風に宿命に力強く立ち向かったことがあっただろうか。
いつも自分は流されてばかりいた事に撫川は今気付かされた。
夜道を生きる覚悟を刻んだ鳳の背から、撫川はいつまでも目が離せなかった。そしてその写真を持つ撫川の手が小刻みに震えていた。
「そんな男が自ら命を絶ったと知った時には私は俄には信じられなかった。今でもまだ信じられない思いでいます」
「僕も、僕も兄は自殺とは思えません」
今まで心の何処かでは自殺かもしれないと揺らいでいた撫川の思いはもはや揺らいではいなかった。鳳の写真を胸に抱きしめながら、そう旗に力強く告げたその眼差しは確信に満ちていた。
久我も鳳の心情を知った今、彼が自殺の道を選んではいないと、撫川と気持ちを同じくしていた。
間違いなく鳳は誰かに殺された!
久我が口を開いた。
「当時、鳳さんと親しく、もしくは対立していた人間を知りませんか」
「あいつは刺青のこと一辺倒で、恐らく友と呼べるような人間はいなかったと思います。
ああ、ただ…当時は悠也ともう一人、弟子を取っていましてね。そいつとは一緒に座学へ通っていました」
「座学…?何の座学ですか」
「薬学が学びたいと言うので日育医大のオープンキャンパスに共に通わせました」
「薬学?」
「刺青の染料の成分研究の為にです。加えて新しい刺青インクの試作も繰り返していたようです。今では一般的にも売られていますが蓄光素材の刺青インクの研究に没頭していました。身体に入れても無害な畜光素材で刺青インクを作ろうとしていました」
「蓄光…?」
「ブラックライトと言うの知っていますよね、暗闇でブラックライトを当てると光って浮かび上がるような刺青のインクを作ろうとしていたのです。
でもそんなものは、染料の大手メーカーも研究していましたから、座学の学生如きの試作などは所詮日の目を見る事もないですが…」
鳳がそんな研究までしていたなどと久我は勿論、撫川も知らない事だった。
「その、もう一人のお弟子さんのお名前は分かりますか、彼からも話を聞いてみたいのですが」
鳳悠也をよく知る人間が他にもいる。捜査線上にある名前と一致する名前だろうか。
「二年足らずでそいつと私は袂を分ちました。私とは些か信条が異なっておりまして…長続きはしないだろうと最初から感じておりましたが…確か、浅野と言いましたか。
そう、浅野丈一郎と言う男でした。ここを出てからどうしているやら。申し訳ないが、彼については全く分からんのです」
それを聞いていた撫川が突然、顔を顰めた。
「あさ…の? …今、浅野と言いましたか?!」
そう言うと、撫川はブルゾンのポケットから黒い一枚の名刺を出してきた。そこには『nostalgia tattoo』ASANO という文字が書かれてある。久我は撫川の手からその名刺を引ったくると書かれた文字を凝視した。
「…あさの。浅野!これはその浅野なのか?!」
久我が撫川を見ると、撫川は首を横に振って分からないと言った。
「でも、その人は兄の事を知っていた。肩に兄が彫った牡丹があって…『学友』だって言ってた!」
撫川がその場の二人を見渡すと、旗は納得した顔でこう言った。
「恐らく、それは浅野丈一郎だと思いますよ。彼もまた刺青の道をまだ捨ててはいなかったのですね」
『浅野丈一郎』久我の前に突然飛び込んできた名前だった。
しかも、それは先日撫川を襲った男だと言う。
色々な意味で気持ちがざわついたが、それにも増して、鳳悠也の存在が自分の予想より遥かに撫川にとって大きなものだと言う事が久我の気持ちを逆撫でていた。
撫川は鳳にとって『片翼の相手』そう旗に言わしめる程の二人の深い絆と繋がりに白分は永遠に太刀打ち出来ないかも知れない。
宿命の相手はどう見ても鳳悠也に思えて来る。
同じ名前の違う男に、しかもこの世に居ない男に撫川を奪われてしまうかも知れない。久我はそんな風に焦ってしまう己の器の不出来を思い知らされていた。
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