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第二十二話 ショッキング
女性が語り始めたのは、予想はしていたとは言え久我にはショッキングな内容だった。
この学校が閉鎖された最大の理由は、当時の学生達と学校側との激しい対立にあった。
学校のガラスが全部破られたり、先生が襲われたり、車が燃やされたり、生徒同士の抗争などがあったりと、警察沙汰になる事もしばしばだった。
それは良くある話しだったが、久我がショックを受けたのはそこでは無かった。
「撫川くんは、ある意味有名人でした。顔が可愛いくて女子に人気があったけど、いつも真面目で無口でよそよそしくて、打ち解ける事はありませんでした。でも…」
女性はそこで言い淀んだ。話しても良いかどうかを悩むように視線が左右を泳いでいた。
久我はこの沈黙が聞いてはならないものの序章のように感じ、初冬だと言うのに背筋に汗が滲むのを感じていた。
引き返すならまだ間に合う。だが、久我にその選択肢は無いのだ。
そんな久我の胸中など知るよしも無く女性は話を続けた。
「不良のリーダー格の男の子が撫川くんを何故か気に入ってしまって、色々とちょっかいをかけていたんです。入学当初から結構執拗に…。それはかなりの生徒が見かけていました。でも、彼はあの通り素っ気ない態度なものだから…」
ダメだ、聞いたらダメだ。
聞くべきじゃ無い!
「リーダー格の男の子とその仲間の数人で…生意気だと…その、リンチと言うか…」
聞きたく無い!
止めろ!
止めてくれ!
「性暴力にあってしまって…、撫川くんは正当防衛でしたけど相手の男の子数人を刺してしまったんです。新聞にも載ってしまって、勿論名前とかは伏せられてたんですけど、ほら小さな町だから噂はあっという間に広がってしまって…それ以来、撫川くんはこの町から居なくなりました」
ーー嗚呼。
何も聞こえなくなった。
この後、久我は彼女と何を話したのか覚えていなかった。
どんな顔をしていたのか、ちゃんと会話をしていたのか、どうやって車に乗ってどうやってホテルに戻ってきたのか。
刑事としての聞き込みに冷静さを失ってはいけない筈なのに!
体の奥に赤黒く焼けたタールのような塊がゆっくりと燃え落ちるのを感じていた。
そこに同情など入る隙間は微塵も無い。そんなものは久我の中で鼠色の灰と化してしまっていた。
不遇な出生。孤独な小学校時代。そして挙句に中学校時代がこんな終わり方か。
涙も出てこなかった。
パチン!
「…ッ!」
花切り挟みの鋭い刃先が、撫川の華奢な指先を傷付けた。
洗面器に張った水の中に、小さな南天の実と共に赤い血液が数滴、水面に溢れ落ちた。
すぐさま指先を口元に持っていき、生ぬるい舌先が傷口を舐めると口の中に広がる鉄の味に撫川は眉根を寄せた。
この所の苛々の原因が最近朧げに見えて来た気がして、時折考えに耽ってはこうして小さな粗相を繰り返してため息をついていた。
そんな時、店のドアが開いた。
男の声で「こんばんわ」と聞こえると、自分の胸の中で何かがざわめき立って勢いよく作業場のカーテンを開いた。
「コンバンワ、ちょうど店の前を通りかかったからさ、ど?一緒に肉まんでも食べない?」
そう言って必要以上の笑顔で立っていたのは彫師の浅野だった。
このところ浅野は事あるごとに用もないのに無闇に花屋に顔を出していた。
浅野はコンビニの小さな袋を指先に引っ掛けて撫川に見せる様に差し出していた。
それを見た瞬間、撫川は落胆している自分がいる事に気がついた。
「なんだ、貴方か。お客様からの頂き物はお断りしておりますので」
「相変わらず素っ気ないね。ぼくはいつかこの前の続きがしたいなあって思ってるのにな」
鼻先にぶら下がる袋からは肉まんのいい香りが漂って来たが、撫川はそれを手に取ることもなく一瞥だけし、ナンパじみた相手の言葉を一蹴した。
「ははっ!手の内見せたら警戒されるだけですよ?」
「ちょっとは、ぼくのこと気にならない?」
「なりません」
即答する撫川を見透かすように浅野はうっそりと目を細め、撫川の頬に顔を寄せて囁いた。
「でも、刺青の匂いには興味があるんだろう?」
「!!」
その言葉を聞いた途端に撫川は固く険しい表情になり、目前の浅野から飛び退いた。
「ふふ、当たりだね。初めて会った時に君が刺青に惹かれる体質だって思ってた。本来は身体に入れた刺青なんて匂わない。でも、たまにいるんだよ刺青の匂いが分かる子が。君はそれを感じる人なんだ。そうだろう?」
撫川は突然こんな事を指摘されて激しく動揺していた。
今まで刺青の匂いのことなんて誰にも話した事はなかった。その匂いを感じることも、そしてそれに欲情する事も誰も知らない。
それは撫川だけの秘密のはずだ。
撫川が踏み込んで欲しくない領域に浅野は迂闊にも足を踏み入れたのだ。
撫川は身体を戦慄かせながら相手を凄い形相で睨んでいた。
「だから…っ、何?刺青している貴方に気があるとでも思ってるの?バカじゃ無い?帰って下さい!不愉快です!」
「あはは!ごめんごめん!冗談だよ、ジョーダン!でも、今度見せてあげるよ。ぼくが唯一入れてる和彫り。あの『鳳』作の可愛い牡丹をね、気になったら見においでよ?」
浅野はそれだけ言うと、撫川の雷が落ちる前に逃げ出す体で早々に店から退散して行った。
『鳳』
思いがけず兄の名前を他人から聞いた。心臓を掴まれたようだった。
兄の彫った刺青があの男の身体に入っている!
男が出て行くと押し寄せた怒りと驚きと緊張が一気に解けて、撫川の体は眩暈とともに脱力して椅子へと崩れた。
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