第二十三話 二人の胸の内

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第二十三話 二人の胸の内

外は朝から冬の冷たい雨が降っている。町はどこもかしこも灰色で久我の心は一層、陰鬱になっていた。 例のホテルに籠ったきり、久我はもう半日も外へは出ていなかった。 かび臭く湿気た部屋は薄暗く、暖房の効かない部屋の中で背中を丸めた久我がベッドに座ってパソコンのキーボードを叩いている。 撫川の暴行事件の話を聞いてから久我は、暫くは何もする気になれずにいたが、なんとか気持ちを立て直して情報収集を続けて来たのだった。 久我は撫川の養父の親戚からも話を聞くことが出来た。 暴行事件以来、両親は今まで以上に腫れ物に触るように息子に接し、撫川はそんな親元からある日突然飛び出して二度と家には戻っては来なかった。 その時の撫川は十六歳。捜索願いも出されてはいなかった事を考えても、引き取ったは良いが彼を持て余していたことが伺えた。 だが結局、こうして撫川の過去を暴き立てても犯人に繋がるようなものは今のところ何も出てこなかった。 こんな薄幸な撫川の過去をほじくり返し、衆目に晒してどうなると言うのか。出来る事なら抹消してやりたいとすら思う。 久我の中の葛藤は更に色濃いものになっていた。 躓きながら仕上げた報告書を瀬尾へと送らねばならなかったが、さっきから指は送信ボタンの上で止まったままだ。 自分は刑事なのだから仕方ない。これは仕事なんだと言い聞かせてみても、これを送ってしまった後でどんな顔をして撫川に会えば良いと言うのだろう。 その時、一本のメールが送られてきた。 [事件の進展あり、一度戻れ] 相手は瀬尾。久我はそのまま静かにパソコンを閉じた。 まだお昼の三時だと言うのに、外はまるで夕方のように暗かった。 いつもは華やかな花屋の店先も今日はこの天気と撫川の気持ち同様に、霞んでぼやけて色褪せていた。 客足も午後からパタリと途絶えたまま。何時も自分を張り込んでいる刑事の姿も今日は無い。 あの浅野と言う男の事をモヤモヤと考えながら、撫川は手持ち無沙汰にクリスマスリースを作っていた。派手では無いが、丸く巻かれた藤蔓に沢山の木の実をあしらった素朴なクリスマスリースが出来上がる、撫川はそれを持って外へ出た。 小雨がいつ雪に変わるとも知れない空模様だ。 今日、客はこのまま来ないかもしれないな。 そう呟く口元で白い吐息が舞い上がる。 早仕舞いでもしたい気分になりながらドアにクリスマスリースを提げていると、静けさに混じって濡れたアスファルトを踏む靴音が近づいて来るのに気がついた。 その靴音は撫川の背後で止まった。 ふと振り返る。 「久我さん!」 そこにはコートを強か濡らして立っている久我がいた。 彼だと思った瞬間、撫川は駆け出していた。 ずっと会いたかった。 ずっと気になっていた。 二人同じ気持ちだったに違いない。 駆け寄る撫川の瞳が揺れて久我を見上げ、そんな撫川の瞳を久我の熱い眼差しが見つめ返していた。 撫川の手が久我の腕に触れると、その冷えた感触に撫川が眉を寄せた。 「すごく冷えてる…、どうしたの?…取り敢えず中に入って、コートも拭かないと雨滲みが…」 そう言って店の中へと手を引いて行こうとする撫川のその手を久我が引き止めた。 振り向く撫川の身体を久我は強く引き寄せると不意に言葉もないまま抱きすくめた。 「…くが…さん?」 抵抗もなく抱き締められると撫川は、心のささくれが見る見る丸みを帯びていくのを感じる。 ここ数日の苛立ちが、まるで潮が引いていくように消えていくのが分かった。 「…すまん」 しばらくすると押し殺した声で久我は詫びの言葉を撫川の華奢な肩へと埋めた。 それは突然抱き締めてしまった事への詫と、今まで自分が彼の故郷でして来た事への両方だったのだが、そんな久我の胸中など知らぬ撫川は突然訪れた胸のときめきに慌てて恥ずかしげな顔を上げた。抱き合った腕は自然と解けた。 「どうしたの?…怖い顔してる」 「寒いからかな。顔が強張る」 ぎこちなく笑う久我の手を引いて、今度こそ撫川は店の中へと久我を誘った。 一歩店内に入ると、撫川と同じ花の香りに包まれて久我は今までの自分を忘れそうになる。 繋がれた柔らかな手の温もりに泣きそうになってしまう自分がいた。 報告書はまだ自分の手元にある。 撫川の過去など自分以外は今はまだ誰も知らない。 今夜だけはまだ撫川への疾しい気持ちはオブラートの中だ。 そう思ったら、高速を飛ばして真っ直ぐに瀬尾の所へ行くべきなのに、久我の足は撫川の店へと向かっていたのだった。 「ここに座って、今何か拭くものを持って来るから。最近どうしてたの?全然見かけなくて…事件から外されたの? ああでも、それなら僕の店には来ないか、ふふっ」 撫川はいつに無く饒舌で、まるで酒に酔った時のような不思議な高揚感を覚えていた。 何処からか持ってきたタオルを久我の頭にふわりと掛けて、今度はストーブの上の薬缶の湯で何か飲み物を淹れていた。 「そのタオル綺麗なやつだから安心して使って。生憎ココアしか無いけど良いかな?」 いそいそと撫川が熱々のココアを久我の元に運んできた。 いつに無く無口な久我を不思議そうに見ながら、まだ久我の頭に乗っかっているタオルで久我の濡れた頬を撫川が優しく拭った。 「ホントにどうしたの?元気ない。少し痩せたのかな…ほら、冷めないうちに早く飲んで?」 あれこれと久我の世話を焼く撫川に久我が「今日は優しいんだね」と言うと、撫川は恥ずかしそうに俯き、言いづらそうに「…この前は…ごめんなさい」と謝った。 ずっと気になっていた言葉を伝えられて撫川はようやく安堵した。 「ねえ、この前はお前に付き合ったけど、今日はオレに付き合ってくれないか」 「ええ?…久我さんとデート?…随分急だね」 「うん、ダメ?」 「何処いくの?」 「あー…と、何処だろう…ははっ、考えてなかった」 誘っておいて行く先も無いと言う相手に久我らしさを感じて笑ってしまう。でも撫川の心は決まっていた。 「行く。何処でも良いよ。僕、行きたい」
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