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第二十五話 ジェットコースターの一夜
こんなキスをすべきではなかったのに止まれなかった。
二人とも船を降りてから一言も話さずに目についたホテルに飛び込んだ。
相手がどんなつもりかのか、自分がこの先どうするつもりだなんて考える余裕なんてどこなも無い。
あるのは撫川の言っていたせいしゅんの様に青くて唐突で灼熱で闇雲な衝動だけだった。
部屋には荒ぶる二人の息遣いが満ちている。あんなに激しいキスをして尚も足りず、あの口付けの続きをしながら久我はコートを脱ぎ落とし、二人絡まり、抱き合いながらベッドに崩れた。
性急な手が、互いの身体を服の上から焦ったく弄り、脈動する欲望の証を手探りで確かめ合った。
久我は男に欲情している自分自身に興奮してた。
無我夢中で撫川の綺麗な頸に舌を纏わせ歯を立てると生暖かいフルーツのような撫川の唇から芳醇な喘ぎが染み出した。
それすら己のものにしたくて久我の熱い唇が奪い去って行く。
爆ぜてしまいそうな欲情に駆られるままに久我の手が撫川のセーターを脱がせ、白いシャツの下に隠された素肌を這い上った時、聴き慣れない呼び名がうっかり撫川の唇から溢れた。「悠也さん…」と。
言った途端に撫川が気がついた。
しまったと言う顔と、動揺して揺れる二つの眼が暗がりで久我を見た。
その刹那、久我は分かってしまったのだ。
同じ悠也でも、呼ばれたのは自分ではないと言う事に。
そして撫川が本当に愛しているのは誰かという事に。
だが撫川にしてみれば、兄の事を久我が知っていようはずもなく、動きの止まってしまった久我を不思議そうな顔で見上げ、己の動揺を悟られぬよう取り繕ろうようにこう言ったのだ。
「どうしたの?悠也さん…」
あたかも貴方の事をわざとそう呼んだのだと言いたげに。
久我の中であれほど溢れそうに満ちていた潮が引いて行く。
嵐に波打っていた水面はまるで水鏡のように凪いでいた。
久我は撫川の上から身を起こし、右手で己の目元を覆い声を振り絞っていた。
「ーーすまん、男は初めてで…、この先が…分からない、情けなくて、ごめん」
こんな嘘をつくのが今の久我には精一杯だった。気まずい空気から逃れるように久我は風呂場へと逃げていた。
撫川とこんな風になるなんて思ってもいなかった。ただほんの一時、一緒に過ごしたかっただけなのに、あのキスが全てをひっくり返した。
いや、そうじゃ無い…最初から求めていたんじゃ無いのか?
挿れたい相手がすぐ側にいるのに久我は情けなく自らの手で己の欲望を吐き出した。
シャワーの音を聞きながら、撫川も服を乱したそのままの格好でベッドに仰向けていた。冴え冴えとした目がホテルの天井を見上げ、久我が急に萎えた原因が分からずに呆然としていた。
自分が発した言葉が全てを壊したとも知らずに。
「嫌われちゃったのかな…」
あの時、間違いなく自分は久我を求めていたのに、咄嗟に兄の名を口走った自分に苦笑う。
でも同じユウヤだ。違う人の名を口走ったなどと久我は思うはずはない。撫川はそう思っていたのだ。
だがあのまま先に進んだとしてはたして自分は久我にちゃんと抱かれる事なんか出来たのか。服を脱いで何もかも晒して裸で抱き合えただろうか。
居ないはずの兄の存在をいつも感じる。あんな風に死んだ兄がいつも撫川を背中から抱き止める。
ーーそもそも無理だったんじゃ無いのか?
なのにあんな忘れられないキスをした。
「どうして?…久我さん。本当は男なんて抱け無いくせに…何であんなキスしたんだよ…」
勝手に滲んでくる涙を拭いながら、撫川はノロノロと起き上り身繕いをする。
散乱している久我の衣服を纏めてベッドの上に置いた時、コートのポケットから何かがはらりと足元に落ちた。
それは小さなメモ書きだった。
拾い上げて何気なくそこに書かれた文字が見るとも無しに目に入った。
青葉小学校
北原第三中学校
★鳳悠也 (東京都◯◯市◯◯町16-1 307)
走り書きでそう書かれていた。
その文字を見た瞬間、撫川は途端に総毛立った。動悸がし、眩暈と耳鳴りに襲われて立っていられずにベッドの端に座り込んだ。
紙片を持つ手が震え出し、汗ばむ手がみるみる氷のように冷たくなって行く。
な‥に、これ、…なんで?何でこんなもの…、ああそうか…僕はまだ容疑者なんだもんな…そうか、久我さんは知ってたんだ…僕の。
「…撫川?」
撫川が顔を上げるとシャワーを浴び終えた久我がバスタオルを腰に巻きつけたままの姿でそこに立っていた。
ベッドの端っこに俯き、無言でそのメモに視線を落としている撫川を見た時、久我も全身の毛が逆立った。
あれは、あのメモは楠木養護園の田村が別れ際に渡してくれたあのメモ書きだ。
久我がここ数日何をしていたか、何を見聞きして来たのか撫川に知られたのだ。
無表情でメモに視線を落としたままの撫川の手からグシャリと久我がメモを握りつぶした。
撫川の顔は怒りも無ければ悲しみもない。ただ暗い穴のあいたような冷めた眼差しが久我を見ているだけだった。
「知ってたんだね。僕の過去…それでここ数日姿が見えなかったんだ」
「撫川、聞いてくれ、オレは」
「分かってるよ。これはお仕事なんでしょ?でもズルい。こんなのフェアじゃない。こそこそ嗅ぎ回った挙句デートって…、僕を馬鹿にしてるの?」
「違う、そうじゃない、これは」
「これは?…僕に同情したの?
可哀想な寂しい僕に楽しい思いをさせてくれたんだ。それはどうもありがとう」
「そんな言い方やめてくれ!そうじゃない、オレが君と一緒に居たかった、ただそれだけだったんだ…!」
言い訳を言えば言うほど上滑りだった。
淡々と、滔々と話す撫川がどれほど今傷ついているか分かり過ぎるほど分かる。
こんなのは裏切り行為だ。
信用させて笑顔にさせて、自分はジョーカーを握ったままなのに、あんなに痺れるようなキスを交わした。
自分は本当に狡い奴だと久我は思った。こんな自分が北風から撫川を守ってやりたいなどとよくも思えたものだ。言い返す言葉も無かった。
どうあっても、明日には自分は撫川の過去を警察に全て話すのだ。
もう、撫川が自分に心を開いてはくれないだろう。あんな風に屈託なく笑いかけてはくれないだろう。
これで良かったんだと久我は自分に言い聞かせるしか無かった。
警察と重要参考人。何処まで行っても立場は変わらない。
真犯人を捕まえるまでは。
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