第二十八話 牡丹

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第二十八話 牡丹

騒がしいクラブのバーカウンター。何杯目かの酒のグラスを握ったまま、撫川はテーブルに突っ伏して動かなくなっていた。 バーテンが、迷惑そうな顔で撫川の肩を揺すった。 「なあ、こんな所で寝られても困るんだけど」 そこに近づく何者かの気配にバーテンが顔を上げた。 そいつは撫川の背後からぬっと現れると無言でその身体を担ぎ上げ、フロアで踊る人達を縫うように飄々と店の外へと消えていった。 撫川は夢を見ていた。 自殺か他殺か警察と鹿島と自分 が揉めている夢を。 傍で死んでいる兄の血まみれの顔と、薄く開いた眼差しは、この世の何処にも焦点は合ってはいない。 いくら取り縋ってもいくら叫んでも、もう二度と鳳悠也は目を覚ますこと無い。 あの日、警察が言った様に、これは自殺だと思うのが正しいのか。それとも兄は誰かに殺されたんだと自分が思いたかったのか。 他殺ならば少しでも、この自責の思いから逃れられるのだろうか。 あれから六年。 まだ心の中は喪失感と罪悪感に蝕まれている。 「悠さん、悠さん…、何でこんな事になっちゃったんだよ、僕があんな事を言ったから?ごめんなさい!もう言わない!もう言わないから!」 「ごめん…ごめんなさい…」 微かに甘い刺青の匂いと自分の泣き声で撫川は目覚めた。 目尻には涙が溜まり、酷く喉が渇いていた。 それに加えて胸のムカつきと共に頭も重い。 最悪の目覚めだった。 「うぅ、…キモチワルイ…」 潜っていた布団からうつ伏せのままノロノロと撫川は起き上がった。 自分の置かれた状況を把握するのに暫く時間を要したが、次第にここが自分のベッドでは無い事が分かってくると、今度は猛スピードで混乱が襲ってきた。 ここは何処で何故こんな所に? 酒を呑んでいたはずでは無かったか。 部屋を見渡しても覚えのない部屋だ。ベッドの隅には自分のブルゾンが放り出されている。 慌ててそれを拾い上げ、羽織っては見たがどうも足元がスカスカする。 自分の姿を見下ろすと、見慣れないブカブカのシャツを身につけ、ズボンは履いていなかった。 血の気が引いた。 見知らぬ何者かと行きずりでセックスをしたとしか思えない状況だった。 身じろぐ気配に傍を見ると、上半身裸の男が撫川に背中を向けて横たわっていた。 その裸の肩には鮮やかな和彫りの牡丹が一輪。 見るものには分かる正しく鳳の彫った牡丹だった。 こんな状況だと言うのに、震える指先が男のその刺青に伸びた。 兄の生きていた証の赤い花。 「見事な牡丹でしょ、君の兄さんは本当にいい腕だった」 牡丹に触れる寸前で手が止まった。やはり聞き覚えのある声だった。 以前、この牡丹を見においでと言われた時に、兄と自分の事を知っているかのような口ぶりが気にかかっていた。 「…浅野さん…これは一体、どう言う事…?僕は何でここに?」 「君、ベロベロでお店の人が困ってたからね。それに最近君のお店やって無いでしょ、どうしたの?荒れちゃって」 浅野は気怠げに寝返りを打って撫川を見上げて口角を上げた。 「…僕は…貴方と寝たの…?」 「だったら嫌かい?」 「…好きな人じゃなくてもセックスは出来る。今更純情ぶっても仕方ないもの」 でも、背中だけは別だ。 撫川にとって背中は兄と自分だけの秘密の場所であり、約束の場所だ。そこだけは誰にも触れさせる事のない禁忌地だ。 「残念だけど、セックスはしてないよ。酒臭い服を脱がせただけ〜。意識のある時にセックスはしないと面白くないでしょう」 ああ、そうか自分は脱がされたのだ。 裸に剥かれて背中を晒したのか。 セックスをしなかった事なんて何の慰めにもならい。 貞操があるとしたらそれは背中だ。鹿島にも見せたことはなかった。そして久我にも見せることができなかった。 それなのに、いとも容易くそれをこんな男に許してしまった。 撫川は生まれてからずっと、長い長い事神様の退屈凌ぎのゲームに付き合わされて来た。 どこまで耐えらられるのか。 これ以上あとどんな苦痛が用意されているのか。 怒る力も足掻く力も残ってはいないのに。 心は恐ろしいほど凪いでいた。 「僕、帰ります。服はどこ?」 「クリーニングに出しちゃったよ。介抱して一晩泊めたのにつれないなあ〜」 「ならお礼にセックスの相手でもしましょうか?起きてる僕としたかったんでしょ?良いですよ」 投げやりな言葉をぶつけられて流石の浅野の顔も不機嫌に歪んだ。 「…可愛げないね、君」 そう言うが早いか、撫川は押し倒され、両手首を掴まれてベッドに押し付けられた。 「君は何者なの?ボクの知ってた鳳くんに弟がいたなんて話し、一度も出て来なかったよ?」 だって? 思いがけない相手の言葉だった。 兄から浅野と言う名前など聞いたことなど一度も無い。少なくとも撫川が顧客帳簿をつけていた四年間にそんな名前は出て来なかった。 「…それは…こっちのセリフだ…っ、貴方こそ誰?」 撫川は聞き返した。 「さあ、誰だろうね。鳳くんの…学友…?とでも言っておこうか」 「がくゆう?」 兄から薬科大のオープンキャンパスの話は聞いたことがある。二十歳で上京し、刺青の師匠のところに住み込みながらオープンキャンパスを覗いた事があると言っていた。その頃に知り合ったのだろうか。 撫川との濃密な四年間の以前、撫川の知らない鳳の十年間が厳然と横たわっている。 そして浅野の前にも、彼の知らない養護施設時代の鳳の人生が横たわっていた。 鳳は自らの事をあまり語らぬ男だった。撫川が浅野の事を知らない事も、浅野が撫川の存在を知らなかったのも無理は無い。 「最初から僕が鳳の弟だって知っててお店に来たの?」 「弟なんて怪しいもんだと思ってね。化けの皮を剥がしてやろうか…なんてね」 「それで僕目当ての匂わせを?」 「匂わせ…ね、いいや?会ったら君、可愛いしさ、純粋に抱いてみたいなーって…好きじゃなくても出来るんでしょう?セックス」 さっき張った虚勢がじわじわと真綿のように自分の首を絞めていた。 いやらしく笑いながら顔を擦り寄せてくる浅野に撫川は身構えていた。
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