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第三十一話 鳥籠
「お邪魔します」
そう言って遠慮がちに撫川は独り暮らしの男の部屋へと上がり込んだ。
締め切った部屋は男の匂いが満ちていた。
ズボンを履いていないお陰で暗くなるのを待ってから、久我の車を花屋の裏口に横付けし、攫うようにしてここに連れて来た。
「散らかってるが、掃除機はかけてあるから気にするな」
灯りがつくと、そこには十畳一間に三畳ほどのキッチンが広がっていた。
久我らしく青と白を基調にしたこざっぱりとした部屋だった。
思ったほど散らかっている様子ではなかったが、ソファの背もたれに脱ぎっぱなしのワイシャツやネクタイが無造作に掛かられていたり、ベッドは起きた時のままに布団が捲れ上がっていたり、未整理の新聞の束がベッドの脇で崩れていたり、テレビボードの下にはゲーム機が雑に突っ込まれていたりと、そこかしこに男の子らしさの残る好ましく隙のある部屋だった。
「テキトーに座ってろ。
インスタントコーヒーしかないけどいいか」
「あ、うん…」
自分の生活感の無い部屋とは違う。
ここは久我が寝て、食べて、暮らしている部屋だ。
そう思うと不思議な安堵感を覚えながらも、なんだかラブホに来た時のようなソワソワと落ち着かない緊張感にも襲われていた。
「コーヒー…砂糖とかミルクとか無いぞ?良いか?」
「…うん、いつもブラックで飲んでるから平気」
二人は並んで座っていた。
まだきいて来ない暖房のせいにして、身体を寄せ合ってコーヒーを啜った。
「これからどうするの?」
久我の肩に頭を預けながら撫川がぼんやりとした顔で尋ねた。
「鳳の過去が知りたい。君の知らない数年間、何があったのか。そこに何か殺人の接点が無いか調べたい」
「僕も一緒にいてもいい?僕も知りたい。鳳悠也の事」
鳳悠也。兄で撫川の愛した男。
同じ名前なのが一層恨めしかった。
「…好き、だったんだろう?」
そう聞かれても、この複雑な想いをどう相手に伝えたら良いのだろう。
「好きだけじゃ片付けられないよ。だって、この世にたった二人だけだったんだもの。どうしても…愛さずにはいられなかった」
撫川にとって、離れ離れになっても鳳は一筋の希望だったのだと想像がつく。
そして十六歳で解き放たれてすぐに鳳の元へ行ったのも痛いほど分る。
「今も…?」
即答なんか出来るわけないのに久我は聞かずにはいられなかった。
撫川は、戸惑いながら頷いた。
「でもね、僕は、そうじゃなくて僕は…久我さんが…ーー」
焦って何か言おうとしている撫川の唇を久我が己の唇で塞いだ。
「すまん、答えにくい事を聞っ…ーー」
今度は撫川から久我の言葉を塞いだ。
しっとりと押し包み舌で弄り合い、二人は一番敏感な場所で相手を求め合った。
気持ちが溢れた。
涙が零れた。
好きで好きで胸が苦しい。
告白をしたばかりの二人は触れれば直ぐに燃え上る。
コーヒーが冷めるまで二人は長い口付けに没頭した。
「…シャワー浴びて来る」
そう言って立った撫川を繋いだ指が引き止める。
久我が無言でただ熱く見つめ、名残りを惜しむ指先が、撫川の指を追いかけた。
最後の最後まで指を絡ませ、やがて指は離れていったが、久我も撫川も、たったそれだけなのに寂しかった。
熱いシャワーを頭から浴びながら、撫川は幸せと不安を両手で抱きしめていた。
「どうしよう、どうしたらいい?久我さんに背中を見せるの?それで良いの?」
兄への気持ちに決着がつかないまま、この秘密を見せるのか。
でも、久我とは全てを曝け出して愛し合いたい。兄以外にそう思える人は初めてなのに、背中に引き止められる。
「お願い、僕を許して…、もう許して…!」
そう思うたびに癒えた筈の背中の痛みが撫川を引き止めていた。
シャワーの音がする。
今あの湯の滴りに白い裸体が濡れている。
今は他に考えなければならない事があるのに、撫川の裸ばかりが頭にチラつく。
家に来いとは言ったものの、仕事と両立できるものか早くも不安になってしまう。
所在なく部屋着に着替えると、ベッドに横たわり、肩肘をつきながら、気を紛らわせるように手元に持ってきたメモ帳に気になっていることを書き連ねた。
鳳の最初の住所
トライバルタトゥーの男(目的は?)
ナイフの出どころ
鳳の事とタトゥーの男は、撫川からもっと聞ける事もあるだろう。
明日は鳳のあの住所を訪ねて…それから。
…それから。
「…久我さん?」
シャワーを浴び終えた撫川が久我の用意したブカブカのシャツと長すぎるスウェットを捲り上げるように履いた姿で、静かな部屋へと戻って来た。
ベッドで寝息を立てている久我を見つけると、音を立てないようにベッドに近づいて、手元のメモ帳と鉛筆を起こさないようにそっと抜き取った。
寝てしまった久我に、少し残念な気持ちと少しほっとした思いとになりながら、愛しい人の寝顔に優しげな眼差しを注いだ。
「いつか僕の羽を貴方に捧げるよ。その時まで、待っていて…」
灯りを消して、足元に丸まった毛布を引き上げ、横たわる久我の隣に潜り込む。
久我の腕を己の身体の前に回すと、寝ている筈の久我が無意識に撫川を抱き寄せる。
首筋に暖かな久我の吐息を感じ、久我の匂いのする毛布に包まれ、背中に久我の体温を感じながら撫川は目を閉じる。
この腕に永遠に閉じ込められるなら、このまま死んでしまいたい。
そう思えるほどの幸せだった。
「撫川…」
囁かれて撫川は肩越しの久我を振り返る。
相変わらず久我は寝息を立てていたが、夢の中でも求められているような気がして撫川は泣いてしまった。
明日からの日々に不安を覚えながらも、今はただこの幸せに包まれていたかった。
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