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第三十二話 新たな場所へ
まだ眠っている撫川を家に一人残し、早朝、久我は刺青連続殺人事件対策本部の合同捜査会議に出席していた。
これまでの経緯や進展した事、浮上している容疑者達。その中に撫川の名前もまだあげられているのだが、その他僅かな繊維痕に至るまでの証拠品など、進捗情報を捜査員は全員で共有した。
そこで改めて犯行に使われていたナイフは先端が欠けている事を再確認し、撫川の持っていたナイフが同じ型の物でも先端が欠けては居なかった事に久我は胸を撫で下ろした。
新たに手に入れた情報は彫り師と呼ばれる人達の名簿だった。
刺青の彫り師と言うのは本来なら医師免許が必要である。
だが、巷で施術を行なっているのはその殆どが無免許なのが現状だ。
刺青は医療行為にあたるのか否か。そこら辺がネックとなって、無免許でも摘発には至らないと言う極めてグレーゾーンな職業だった。
鳳も医師免許は持っていなかったと推測されたが、彼に施術を受けた者によると、鳳の技術の高さや知識の豊富さに対しての信頼感は絶大だったと証言している。
気軽に開業しても、人体についての知識や卓越した技術が求められ、感染症やその他のリスクを背負い、うっかりすると訴訟問題に発展する事も覚悟しながら、その人の一生を左右するかも知れないものを身体に刻みつける。
無論、人それぞれ思う所は違うのだろうが、生半可な覚悟では恐ろしくて彫り師になどなれるものでは無いと久我は感じていた。
そんな道に若くして飛び込んだ鳳の人生の覚悟とはいったいどんなものだったのか。
久我は今後の行動計画を瀬尾に報告すると警察署を後にした。
久我に課せられたのは当面、鳳の痕跡を追う事だ。
手始めに楠木養護園の田村に教えてもらった鳳が初めて一人暮らしを始めた場所を訪ねてみる事にした。
久我は鳳の捜査には撫川を連れていく事を約束していた。
一人部屋に残した事も気になって、連絡を入れようと携帯を取り出したが、またしても番号を聞いていない事に思い当たる。
「くそっ!そうだった!電話番号…っ」
もう何度、しまったと思った事だろうか。今度こそ聞いておかねば、いつか痛い目に遭いそうな予感がするのだった。
取り敢えず彼を迎えに一旦家に戻る事にして久我は車に乗り込んだ。
撫川が目覚めたのは久我が出掛けた後だった。
枕元には警察に顔を出してくる旨のメモが置かれていて、その走り書きすら愛おしかった。
目覚めてもしばらくは久我の温もりが残された毛布の中で彼の香りに包まれ、幸せな微睡から抜け出せずにいた。
久我の事を考えると自然と顔が綻び、誰も見ていないと言うのにそんな自分に照れていた。
久我の枕を毛布の中に引き摺り込んで抱きしめ、顔を埋めると久我の匂いが強く香り、それだけで脳髄が痺れて甘い切なさに胸苦しくなる。そうすると、勝手に下半身が疼き出し、撫川の利き手が下肢へと伸びてリズムを刻み始める。
「…久我さん、っ、」
ホテルで初めて布越しに触れられた感触を思い出す。
自分の手に触れた久我の熱いカタチが蘇る。
幾度となく交わした口付けの熱さ、その舌の味わい。
匂い立つ男の色気。
欲情を耐える表情。
一途な眼差し。
身体を弄る男らしい手。
重なる厚い胸板。
穏やかで落ち着いた声。
それら全てが撫川を煽り立て、抑えようもない猛りを感じてしまう。そこを久我に良いようにされている妄想が急速に快感のボルテージを上げて行くと、次第にリズムを刻むテンポが速くなっていく。
「ああ、久我さん…っ、もっと、もっと…ぁ、ぁ…っ」
ーー…イク!
ガチャン!
絶頂寸前でドアの鍵が開く音がした。撫川は最もまずいタイミングで固った、慌てて毛布の中に頭からすっぽりと逃げ込んで、息を殺して身を固くした。股間はすっかり縮み上がっていた。
ワンフロアではダイレクトに自分は久我の視界に入る。靴を脱ぐ気配がすると直ぐにベッドへと久我は近づいて来る。
「…撫川…、撫川…、起きれるか?」
優しく撫川を揺り起してくる。
今の今まで、妄想していた張本人がここに居ると思うと、気恥ずかしさと罪悪感と、不発のジレンマで頭も身体もパニックに陥っていた。
「撫川、起きられるか?」
そう言って布団を捲られると、撫川の顔は上気し、真っ赤に充血した涙目が久我を見上げている。
「どうした!具合悪いのか?熱でもあるのか、顔が真っ赤だぞ!」
額を合わせようと久我の顔が近づいてくるが撫川は咄嗟に逃げた。
「だ、だ、大丈夫…!…熱無いし、お、起きられるからっ、」
毛布に籠った匂いを気にして、大袈裟なほど毛布をバサバサと捲り上げ、撫川はベッドから転がり出て来た。
撫川の頭は寝癖でクシャクシャで、シャツは肩からずり落ちそうになっている。
思わず久我が笑いながら、その頭をさらにかき混ぜた。
「支度しろ、今から鳳が最初に暮らした家に行くぞ、お前も行きたいんだろう?」
「え…?う、うん。行きたい。あー…でもズボンが…」
撫川は取り敢えず久我の七部丈のズボンを借りた。七部丈で丁度いい長さと言うのも悔しかったが、この際そんな事は言ってはいられない。
後で家から当面の荷物を運ばなければと思うと、何だか押しかけ女房のような気持ちになって気恥ずかしくも有り嬉しくも有った。
こうして二人は久我の車で都会から外れた中都市へと向かっていた。少し標高の高いその都市は、いつも天候が変わりやすく、こちらを出た時は晴れていたのに、一時間走っただけで雨に変わっていた。
この町で鳳はたった一人で人生最初の一歩を踏み出したのだ。どんな事を思い、どんな覚悟だったのか。
そしてどんな顔の鳳がこの先待っているのだろうか。
窓の外の風景を撫川は少し緊張した面持ちで眺めている。
「知るのは怖いか?」
「…少しだけね」
そう言って、心細そうな笑顔を見せる撫川の、膝に置かれた華奢な手をそっと久我は握り締めていた。
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