第四十二話 ワイン蔵

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第四十二話 ワイン蔵

「瀬尾さん、あの、松野は大丈夫ですか…。すいません、言われていたのにオレが逸ったばっかりに…松野に負傷させてしまいました」 神妙な顔を更に蒼白にしながら瀬尾の背中に久我は詫びた。 「ブラックでいいか?」 病院の暗いロビーの片隅に煌々と灯がついているのは自販機だけだ。 瀬尾は久我の謝罪を背中に聞きながら二本の缶コーヒーを買っていた。 「あのっ、瀬尾さんオレ…っ」 「お前何様だ」 「えっ…?」 「松野が負傷したのが自分のせい?お前そんなに偉くなったのか新人。あいつが怪我をしたのは俺のミスであってお前のミスでは無い。それにお前が現場で役に立たん事くらい先刻承知だ。想定内だ」 ほら飲め!と瀬尾は缶コーヒーを差し出した。 「役に立たないの分かっていてなんでオレを…!」 「皆んな必ず通る道だからだよ。お前、悔しかったろう?自分にがっかりしたろう?そう言う思いをして、皆んな一人前になって行くんだよ。こんな事くらいでへこたれるなバカ者!まだ犯人は捕まっちゃいないんだ、うじうじ考えて立ち止まってる場合じゃ無いぞ!」 久我はぐうの音も出なかった。 同時に横っ面を引っ叩かれたような気がした。 瀬尾は決して厳しいだけの上司では無い。久我は心に一穴を穿たれた気さえした。停滞し、淀み切った物がそこから外へと押し流される様な感覚だった。 「いいから冷めないうちに飲め!俺が奢ってやるなんてそうそう無いぞ」 「は、はい…」 久我は黙って従った。 いつか、自分もこの瀬尾のように苦界(くがい)も笑殺出来るほどの肝の座った男になりたい。 そして罠と知りながら己の情夫のために、一人で虎穴に切り込んで行った鹿島のような、優しく強い男になりたい。 二十五歳の久我の目には自分の周りにいる男達が眩しく見えた。 撫川の一言で心を乱している自分の甘さが、この缶コーヒーよりも苦かった。 「犯人は何処に逃げおおせたんでしょうか。あんなに包囲されていたのに…」 「あの工場の見取り図には書かれて無い通路があった。恐らくそこから逃亡したのだと思われる。今、浅野の家と店を捜索させてはいるが。大した収穫には繋がら無いかもしれない、 あの浅野と言う男はこっちでも捜査線上に上がっていたが、お前は鳳ルートで浅野を知ったんだな?」 「はい。浅野は他の何処から捜査線上に上がってきたんですか」 看護婦も入院患者も、人影ひとつ無い病院のロビーで二人、椅子に腰を下ろしながら声を顰めて話し込んでいた。 「折れたナイフの先から辿って行った。過去に何か問題のあった整形外科医をくまなく調べていたらヒットした。 過去勤めていた整形外科で刺青を消すレーザー治療と称して、皮膚を切り取ると言う事件を起こし医師免許を剥奪されていたんだ。ヤツの緊急配備直前にお前から報告が入ったと言う訳だ」 「その浅野丈一郎と言う人と話がしてみたいですね。何故、鳳の刺青ばかりを狙ったのか」 「撫川が浅野丈一郎に襲われたと言うのは本当か」 「はい…本当です」 瀬尾はしばらく何かを思案げに手元のコーヒーを啜り上げていたが、不意に顔を上げると久我に尋ねてきた。 「撫川の身体に鳳の刺青が入っている…なんて事はあるか」 「…いえ…」 久我は少し考えた。プールで見た撫川の背中はシミひとつない綺麗な肌だった。ホテルでは肌は見てはいないが、花屋の店の中で見た足にも刺青は入ってはいない。腕や腰には如何なのだろう? 「いや、…どうでしょう。大きいものは入っていませんでしたが。細かい刺青は分かりません」 そこまで言って久我は自分が余計な事を言ったと気がついた。 瀬尾を見ると、どうとでも取れるような曖昧な笑みを浮かべている。 咄嗟に久我の頬と耳にが熱くなる。何かを勘繰られているような気持ちになり、焦っているのが一目瞭然の分かりやすさだ。 「あ。いやそのっ、ぷ、プールで…見ただけなので本当のところはどうか分かりませんが…!」 「……?何を焦ってるんだよ。おかしな奴め」 いつか自分は瀬尾に言う日が来るのだろうか。撫川と付き合っていると。それともそんな日は来ないのかもしれない。 さっき自分を見ようともしなかった撫川の姿が頭を過った。 「くそっ!!」 鹿島に強か切られ、警察の網を掻い潜り、闇夜に乗じて男は命からがら逃げてきた。服の上から流血の見える腕を庇うようにしながら、地下の階段を転がり落ちる様に降りてくる。 そいつは部屋に入って来るなり堅固な石壁を悔し紛れに思い切り蹴り上げた。 使われなくなったワイン蔵は貴腐の薫りが未だに染みつく絶好の隠れ家だった。 簡素なベッド。机代わりの酒樽。その上にLEDランプが辺りを明るく照らしている。 その壁には、刺青の下絵だろうか。いや、そうでは無い。もっと生々しく浮かび上がるソレ。 それは人の背中から剥ぎ取った鮮やかな刺青。額縁に伸され、パウチングしてあるそれは仲良く二つ並んで飾ってあるのが見える。 男はサングラスを顔からむしり取ってベッドへと放り投げた。 その顔はやはり浅野丈一郎その人だった。 浅野は肩から血だらけの袖を引きちぎるとベッドに座り、乱暴に広げた薬箱の中からエタノールのボトルを掴み出してその傷口を洗い流すように消毒し始めた。 その痛みは想像を絶するであろう。険しい表情が浮かび上がった。 手術用の針と糸を取り出しそれも消毒すると、自分の皮膚に己で針を突き立てた。 耐え難い痛みに襲われて浅野は引きちぎった袖を丸めて口に詰めて噛み締め、手を震わせながら喉奥からくぐもった呻きを漏らした。傷口から溢れてくる血液を拭きながら、一針一針自らの傷口を縫い合わせて行く。 ベッドの周りには血液を拭いた布が、まるで赤い花が散るように咲いていた。 傷口は有に20センチ以上はあるだろうか。整形外科のスキルが役に立ったが、己で己の手術を行うには並々ならぬ気概いと強い忍耐力が必要だった。 それでもここには自分一人だけだ。やり始めたなら終わらせるより他は無かった。 最後の一針を縫い終わると、浅野は滲む脂汗を拭う事なく、深く息を吐き出しながら、漸くベッドに沈み脱力していった。 「ボクの名前は浅野丈一郎、君は?」 「……俺は、鳳。…鳳悠也…」 あの時、初めて君に出会った。 十九の夏。生き急ぐアブラゼミが命の限りとばかりに鳴いていた。
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