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第四十三話 蝉時雨
八月の茹だるような暑い日、二人は初めて出会った。
偶然にも同じ日に旗の工房の門を叩いた。二人とも其々に幾ばくか旗との押し問答の末、渋々と言った様子で漸く入門を許された。
この頃は旗の工房では弟子は住み込みと決まっていた。
畳のささくれが足の裏に張り付く古めかしい六畳一間で赤の他人が共に暮らす事になったのだ。
エアコンは無く、古い扇風機が一台部屋の片隅に置いてあるだけ。
締め切ってある部屋は蒸し風呂のようで、先に入った浅野は真っ先に窓を開け放つ。
蝉の声は一層騒がしくはなったが、仄な風が浅野の顔を心地よく撫でて行く。
後ろからのっそりと部屋に入って来た同輩の気配を感じた浅野は振り返り、屈託ない様子で先に相手へと話しかけていた。
「ボクの名前は浅野丈一郎、君は?」
「……俺は、鳳。…鳳悠也…」
鳳と名乗ったその少年は漆黒の髪が目元を隠していたせいか、一層無口な印象だった。背も浅野と同じくらい高く、聞けば歳も同じ様なものだった。
そこそこ荷物のあった浅野に対し、鳳が持ち込んだのはボストンバッグが一つだけ。質素で控えめな印象の男だった。
師匠となった旗は普段こそおっとりとしているが、いざ仕事の事となると厳しく、偏屈で頑固で、妥協の無い人だった。
最初は刺青の刺し針の針を数えて纏めるだけの簡単な作業から始まり、刺し棒を作れる様になり、染料の配合や発色の特徴など覚え、和柄の種類や決まり事を一つづつ覚えていった。人体の仕組みも教えてもらい、刺青を入れてはいけない場所など学んだ。
まずは自分の足から自彫りで基本の彫り方を学び、少しづつ客の身体に小さなものを彫らせてもらえる様に段階を踏んで行く。
その間には逃げてしまおうかと思えるほど酷い怒られ方もしたが、そんな時もすぐにへこたれる浅野と違い、鳳は全く揺らぐことはなかった。
ある夜、浅野は師匠にこっ酷く突き放された。それは刺青についての資質の事だった。
先に部屋に帰っていた鳳が寝支度をしていると、浅野が猛然と帰って来て、悔し涙を流しながらバッグに荷物を突っ込み始めた。
鳳は黙ってそれを見ていたが流石に気になったのか、どうしたのかと尋ねる様に浅野の肩に手を置いた。
「ボクは和彫りを克服できないって言われた。お前のはどうやってもタトゥーなんだってさ。お前、その違いがはっきり分かるか!」
鳳はじっと浅野の目を見つめこう言った。
「俺にはタトゥーが分からない。だから違いについてなんて考えたことはない」
自分には和彫が理解できず鳳にはタトゥーが理解できない。
旗の言う和彫りの資質というものの差を、浅野はこの時初めて鳳のその返答の中に見た気がした。
「…ボクの家系は色濃いアイヌの家系に生まれたんだ。今でこそ、タトゥーの習慣は無くなったけど、師匠の言うように、ボクの中にはまだ脈々と民族的な血が流れてる。それは克服とか、そう言うものでは無いんだってさ。
ボクはちゃんと和柄を描いているつもりなのに…。師匠にはそうは見えないらしい」
それは言葉にできない感覚的なもの。浅野が悪い訳じゃ無く、師匠がおかしい訳じゃ無い。
浅野がこの工房に居ても意味がないと言う事実だけだ。
再び荷造りする浅野の手を止めて鳳が真面目な顔で聞いてきた。
「アイヌのタトゥーを見たことがあるよ。女性が口の周りに大きな耳まで口が裂けたみたいな黒いタトゥーを入れていたが…どんな意味があるんだ?」
浅野は少し驚いた。こんな質問を受けたのは初めてだったからだ。何よりアイヌの文化に興味を示してくれた事が意外でもあった。
「く、口髭を模しているんだ。あれは既婚女性がするタトゥーで古くは男の縄張りや所有を示すためのもので…」
鳳は熱心に浅野の話を聞いて来た。そうやって、一晩中アイヌのタトゥーの話をし、気づけば浅野は出て行く気力がすっかり削がれていたのだった。
この頃からだろうか浅野は急速に鳳という男に惹かれていった。
いつも寡黙に何かを追い求め、秘めた信念を内包し、下絵を描く後ろ姿にさえも危機迫る直向きな姿に魅せられていった。
同時に、自分とは違う圧倒的な才能や天性が、浅野をむざむざと斬りつけてもいた。
この師匠の元では自分は駄目だと思いながらも旗の工房に居続けたのは、一重に鳳悠也いたからだ。
そんなある日、浅野は鳳に頼み事をされた。
初めて他人の肌に刺青を入れるのだが、その練習台になって欲しいと言われたのだ。
弟子同士が互いに練習台になるのは珍しいことでは無いが、まだ師匠の刺青すら入れる事を躊躇っていた頃に、鳳からそんなお願い事をされたのだ。
言葉少なに、頼めないか…と。
誰でも無く、自分が初めて鳳のファーストタトゥーになれるのだと、身体が震えるほどの興奮を覚えた。そして味わったことのない多幸感に襲われた。
一も二もなく浅野はそれを快諾していた。
こうしてその日から毎晩、仕事が掃けてからの数時間が二人だけの時間となった。
図柄は左肩に掌程の一輪の真紅の牡丹を入れる事にした。
まだ不慣れな彼の一刺し一刺しの痛みが浅野にとっての悦びだった。
愛しい鳳の情熱が痛みと言う形で美しく刻印されて行く。
極薄のラバースキンの手袋越しとはいえど、鳳が肌に触れればその体温を感じ、吐息が降りかかるその時間を、まるで乙女の如くに享受した。
それは浅野が内に秘めたる一方的な想いに過ぎなかった。
彼への恋心を口にした途端、壊れてしまう様な儚さを孕んでいた。
そんなある夜、いつも通りに鳳が刺青を施していると、無口な男が珍しく浅野に聞いてきた事がある。
「誰かに刺青を入れてみたいと思ったことはあるか?」
「……え?……特定の誰かってことかい?」
「そうだ」
「それは…無い、かな。君はあるのか?」
「…あるよ。その人の肌にいつか俺の魂を刻んでみたい。でもそれは俺のエゴだ。押し付けるわけにはいかないからな…これは俺の夢の話だ」
静かな告白だったが、それこそが鳳を駆り立てている根底のマグマのように浅野には感じた。
「……それが、誰か聞いても良いかい?」
そう尋ねたが、鳳は黙って微笑むだけだった。
嫉妬するには余りにも鈍い痛みだったが、そのことが消えない残火のように、ジリジリと長い事、浅野の心を炙ることになったのだった。
甘い酒の匂いと血の匂いが充満する部屋の中、浅い眠りの中に居た浅野は苦悶に顔を歪めて叫び声を上げていた。
「酷い…!それは酷いだろう…!そこにボクは居なかったのか?!…居なかったのか?!おおとり…!」
浅野は自分の叫び声で気がついた。ぼんやり見える天井は石造りで薄暗く、今自分がどこに居て今がいつなのか頭の中が錯綜している。
「ヒッア…ッ!!」
少し動かしただけで腕に走る激痛が、その答えを瞬時に導き出していた。
見開かれた浅野の常軌を逸した瞳が左右に小刻みに揺れている。
「……あいつの背中だ…!やっぱりあいつの背中なんだろう?鳳くん、早くしないと…捕まったら全てが終わる…!その前に…あいつを…っ!」
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