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第四十五話 違う空の下の同じ二人
「おい!花屋!お前オヤジがどうにかなったら許さんからなあ!」
「このオカマ野郎!死ね!死んで親父に詫びろ!」
「情夫は中に入れて俺らがダメっておかしいやろう!!」
病院から出た途端、凄んだヤクザ数人に取り囲まれて、撫川はてんでバラバラな罵声を浴びせかけられた。
組員達にとってこれまでも撫川の存在は疎ましいものだったが、それに加えて今回は撫川が原因で大事な親分が死にかけているのだ。
撫川は親分を色仕掛けで危ない目に合わせた憎き傾城とでも思っているのだろう。
撫川の前に立ち塞がった澤村が強気に声を張り上げた。
「静かにしなさい!下がらないと皆んな逮捕しますよ!」
「何だ?!ねえちゃん!一人でこんだけの人数逮捕できるならやってみさらせ!」
飛び交う怒号に病院の玄関口は騒然となっていた。
一般人は走って逃げ出し、常駐の警備達がアタフタと頼りなさ気に駆けつけて来た。
あわや一触触発と言う中で、撫川の声が空を切り裂いた。
「周吾さんが死んだら僕を好きにすればいい!だけど今はまだ周吾さんはたった一人で闘ってるんだよ!ヤクザのくせに今からガタガタ抜かすな!!」
撫川は「行きましょう」と澤村に言うと、まだ不満げなヤクザ達を睨みつけながら毅然とその場から立ち去っていく。
遅まきながら駆けつけてきた警察官達に促され、ヤクザ達もその場から排除されていた。
「見事な気迫でしたね」
澤村が出してくれた車に乗り込んだ撫川は、彼女の労いの言葉に漸く深いため息をついて脱力した。
撫川とて緊張していたのだ。
「あの人達も不安なんですよ。組組織って狼とか犬の群れと同じで
ボスが居ないとどうなもならないんです。いつも誰か敵がいて、何かと闘争してる人達だから、今は僕が敵になる事で気持ちを安定させたいんですよ。それに、あの人達の言ってる事もあながち嘘じゃありません」
マンションに行く道すがら、いつもよりも多くのパトカーや警察官にすれ違う。
「まだ、犯人はつかまって無いんですよね…」
「そうですね、今緊急配備中ですから、きっと間も無く犯人も逮捕されると思います」
窓の外を飛び去っていく景色の中、この警察官達と同じように久我も今どこかで犯人を探して頑張っている。
だが頼もしいと思うより先に、今は寂しいと思う方が優ってしまうのだ。
やっぱり離れたくない。貴方をこんなに好きになったのに。
何も話せずに、このまま心まで遠くに離れて行っちゃったらどうしよう。そんなの嫌だ、嫌だよ久我さん!
撫川の不安を写したような灰色の街を、背後から追い抜くパトカーのテールランプが長くシュプールを残して遠ざかっていく。
「先に言っとくが、謝るのは無しだ!お前のせいじゃない。この事で何か言ったらぶちのめす」
久我は一課で松野と会った開口一番の挨拶がそれだった。
腕に巻かれた白い包帯が痛々しかったが、松野のやる気は漲っていた。
「俺はあの浅野を追うように言われてたんだけど、お前は鳳を追うように言われていたんだな。
俺、折角インクの所まで辿り着いたけど、こうなってみればインクなんて追っても無意味だったのかな」
「刺青のインク?」
「ああ、浅野と鳳がある製薬会社と刺青インクの共同開発をしていたのは知っているか。
六年前にその会社に二人が開発したインクが持ち込まれる筈だったが、何故かその話は鳳サイドから一方的に打ち切られたんだと。その後、そのインクは製薬会社が独自開発で研究を進め、めでたく商品化に漕ぎ着けた訳だが…」
久我は旗もそんな話をチラッとしていた事を思い出す。
「松野。そのインク、刺青の蛍光インクとかじゃないか?」
「そう、だけど…何で知ってる」
「オレは鳳の師匠から鳳と浅野の関係や共同研究の話を聞いた」
「そうか、じゃあお互い同じような所に行き着いた訳か」
そう、警察の興味はそこまでだった。
だが久我はそこから先の、鳳の他殺説を視野に入れていた。
刺青インクの事で二人に何らかのトラブルが生じて浅野は鳳殺害に至った。そう考えると動機としては辻褄が合う。
だかそれはこの一連の刺青殺人とは直接関係なく、警察もそこまで追っているわけではない。
しかしながらそれは浅野が一連の犯行に至るまでの重要な分岐点になったのかもしれないと久我は感じていた。
しかし、もし鳳が他殺だと証明されたとしたら、それは当時の警察の捜査ミスなのだ。警察がその事実を公表したがらない事は容易に想像できる事だった。
でもこのまま兄が自殺と言うレッテルを貼られたままで撫川が良いと言うだろうか。
撫川…。澤村に警護を頼んだが、今頃どうしているだろうか。何も話し合いもできずにすれ違ったままオレから心が遠ざかってしまうのでは無いか。
離れたく無い。絶対に離したくは無い!まだ愛してると伝えてもいないのに!
そんな負の考えがむくむくと湧いてくる。
違う空の下、告白し合ったばかりの二つの魂が不安定に揺れていた。
久我は一度頭を振った。兎に角、今は目の前の浅野を逮捕することが何よりも先決だった。それから先はそれからの事。久我は自らの不安に蓋をした。
司令を出す側の瀬尾の話だと、手負の浅野は、いつもの周到さを欠いていて、今回ばかりはあちこちの防犯カメラに逃げる姿を残していたと言う。
早速A班からE班まで区切られ、其々が防犯カメラに映っていた箇所周辺を、自らの足でしらみ潰しにするよう命ぜられていた。
松野と久我とはE班に組み込まれ、二人一組になって浅野が入り込みそうな空き家や廃屋などを捜索すべく一課を飛び出していった。
「そうそう簡単に捕まってたまるか!」
ワイン蔵の薄明かりの中、浅野の足元には大量の髪が散らばっていた。鏡を前に剃刀を取り出すと、浅野は自らの眉に刃を当てて躊躇なく一気に全てを削いた。
その時だった。地上で何か物音がする。耳を澄ませ、浅野は身を硬くした。人の足音や声がする。
ゆっくりと浅野はランタンの明かりを消した。
暗闇に怯えた目が見開かれ、心音が早鐘を打ち、押し殺しているはずの吐息が荒く響いている。
何?
誰だ?!
警察か?!
何してる!!
ヤバい!見つかる!!
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