第四十六話 その人こそは…

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第四十六話 その人こそは…

「おい、ここは見たか?」 「いや、ここは何だ?空き店舗か?」 「ワインボトルが散乱してるな」 ガタン、ゴトゴト… バキっ! 「おい、気をつけろ」 「奥は…?」 「くそっ暗くてよく見えんな」 床下の階段下で浅野は息を殺して上から聞こえてくる微かな物音と声に耳を傾けていた。 右や左にワインボトルが転がる音。 何かを踏み抜く音。 浅野の手は汗でぐっしょり濡れていた。 「うん?これは何だ?…ビニールシートか?何でこんなところにあるんだ?」 ガサっ!ガサガサ! 地下に降りる扉はちょうどそのビニールシートの真上だった。浅野の呼吸が荒くなる。 見つかる…! 見つかってしまう! ガタン! 「おい、何も無さそうだな。次に行くぞ久我!」 「あ、ああ…」 先を急ぐ松野の声に半端にめくったビニールシートを久我は手放した。自覚のない違和感を覚えながらも、久我は振り返り、懐中電灯で荒れた部屋全体を一望すると何も無いと判断して松野と共にその場を離れた。 煉瓦造りの古びた建物の壊れた窓から体をねじ込ませるように二人は外へと出て行った。 ハァ…ハァ…ハァ……ハァっ… 浅野は喘いでいた。今まで息を潜めていた浅野は手だけではなく全身汗でぐっしょりだった。人生で一番緊張した瞬間が過ぎ去ったのだ。 あのままビニールシートを捲られていたら、地下室に続くこの扉が見つかっていたかもしれないのだ。 「ぅぐ、グヲォ…!」 緊張のあまり、浅野はその場で吐いていた。 追い詰められる腹立たしさと同時に逃げ果せたと言う高揚感が浅野を同時に襲っていた。 「くそっ…っ!………ふふっ…まだチャンスはある!撫川!待っていろ、お前の背中はボクのものだ!…はははっ!」 撫川は誰かに呼ばれた気がして振り返った。 マンション脇の来客用の駐車場に停まった車から降りて来た撫川は首を傾げた。 「どうしました?撫川さん」 「あ、いえ…誰かに呼ばれた気がしたんですけど」 澤村も辺りを警戒して見渡したが動く影の一つも無い。 「ごめんなさい、僕の勘違いですね」 澤村は部屋の中には入らずにドアの前で待機していた。 撫川は相変わらず殺風景な己の部屋を見渡して少しだけ笑えた。 部屋を見渡しても当面の着替えや洗面道具以外これと言って大事な物や執着するものが無い部屋。 それなのに何故、一度家に帰らなければなんて気持ちになるのか。寝るだけと思っていたこの場所そのものが、知らず知らず撫川の執着となっていたのか。 そう思うと案外自分にも可愛い所があったことに気づくのだった。 引き出しを開けて整然と折りたたまれた衣類をそのままキャリーバッグに詰めて行く。靴下も幾つか引っ張り出すと何かもっと小さなものが一緒に転がり出て来て撫川はそれを拾い上げた。それは懐かしいシュシュだった。 撫川を捨てた母が唯一持たせてくれた物。そして鳳が弟だと気づくきっかけになってくれた物。何処かにしまって忘れていた物が今更こんな場所から見つかるとは。 感慨深くそれを見つめていると、澤村がドアをノックした。 「撫川さん、あなた宛にバイク便だそうですが、心当たりはありますか?」 慌てて撫川は立ち上がり玄関を開けると澤村が怪訝な顔でバイク便の差し出す荷物と撫川を見比べた。だが配送表を見た撫川は顔を綻ばせながらそれを受け取っていた。 「これは何ですか?安全な物ですか?」 「大丈夫です。知り合いからです」 それは紺色の使い込まれた風貌のボストンバッグだった。 送り主はあの旗豪志とある。 と言うことは、これは旗の所に残されていた鳳の荷物に他ならない。 中を開けると荷物の上に撫川さんへと書かれた封書が入っていた。 そこにはこの荷物が鳳の荷物だと言うことと、捜査に役立つかもしれないので早速送った旨が書かれてあった。 中には衣類と本と手紙の束。今となっては貴重な兄の遺品達だった。 「ここで中身を確認して行かれますか?」 旗の意向を汲んで、慌ただしくその中身を確認するが、衣類が数点と、刺青に関する書籍が数冊。そして一番底から手紙の束が出てきた。宛先は全て自分宛。だが、それらは切手を貼っておきながら投函されてはいなかった。 丁寧に封印までしてあると言うのに。 「これ、落ち着いた所で開封したいです」 「そうですね、じゃあ持って行きましょう」 撫川のキャリーバックの中にそれらは仕舞われ、念のためバッグの方は久我の手に渡るように澤村に託された。 短い滞在は終わり、二人は車へと歩き出した。 「あれ?可愛いシュシュですね」 キャリーバッグを引く撫川の腕にさっきは無かったシュシュがはめられている事に澤村が気が付いた。だが同時に撫川本人も言われて初めて気がついた。 「え?ああ…僕、持って来ちゃったんだ…これ、母が唯一僕にくれた物なんです」 「お母様が?」 「母の顔は知らないんですけどね」 そう言って愛想笑いを浮かべる撫川の事情は知らない澤村だが察しは良い人間だった。 「そうですか…。じゃあ、お母様がきっと撫川さんにお守りのつもりで持たせてくれたのかも知れませんね」 「そう…なんですかねえ…ははっ…」 そう言われても、撫川には今ひとつその話しがピンとは来なかった。 人通りも車通りも激しい沿道沿いで、路上駐車をしている車に制服姿の警官二名が、浅野のモンタージュ写真を見せながら職務質問をしていた。 「お忙しいとこすいません運転手さん、こんな感じの男をここいらで見かけた事はありませんか?」 どれどれと見せられたモンタージュを運転手の男が覗き込む。 「さあ〜、ここいらは繁華街が近いですからねえ、こんな遊び人風の男なんてごろごろいますよ」 「背の高い痩せ型の男なんですがねえ〜、ほら、ちょうどあのくらいの身長で……」 警察官の言葉が途切れたのは無理もない事だった。『あのくらい』と指さした相手が道の向こうから近づいて来るに従って、その容貌がはっきり見えて来たからだ。 背の高い痩せ型ではあったが男か女か判別できない。 髪は燃えるようなオレンジ色で襟足を刈り上げたような短い髪型。 顔は不自然に釣り上がった細い眉が描かれ、赤いルージュが引かれている。アイラインと付け睫の目元ばかりが際立って見えた。 フェイクファーのショートコートを肩に引っ掛けピッタリとした赤いパンツ。高いヒールのブーツをカツカツ鳴らしながらその人は肩を揺らして歩いてくる。 パッと見には二丁目界隈のお姉さんお兄さんだがその派手な風貌が目を引いた。 その人は警察官達が呆然と見送る中、その脇を悵然と笑みを浮かべ、流し目さえくれて歩き去って行ったのだった。 「はあ〜色んな人がいるもんですなあ〜」 運転手共々警察官も驚いた顔で談笑していた。手に持つ手配の男とは露程も疑わずに…。 浅野は笑いを堪えるのに必死だった。誰も自分だとは疑いもしない。肩にかけたフェイクファーの下で、腕に巻かれた包帯に例え血が滲んでいようとも。
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