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第四十九話 秘密の約束と死闘
すぐ近くまで久我が来ていることなど撫川は知る由もない。
ベッドに縛られ抵抗出来る術を絶たれ、このまま猛る浅野に犯される他はないと、何処かで腹を括っていた。
そして気持ちの盛り上がりも前戯も無く、恐怖に縮み上がった撫川の身体にそれは強引に押し入って来た。
「ヒっ……ァ…!」
浅野に犯されながら撫川の頭に浮かんでいたのは刺青を入れた時の兄との約束の事だった。
「本当に良いんだな。背中に入れても」
「勿論だよ、悠さんだから彫ってもらいたいって思ったんだ」
「今からお前の背中に入れるのは、白粉彫りと言うものだ」
「白粉彫り?」
「そうだ。見た目は彫ってあるなんて分からないが、お前が悦びを感じる時にだけ背中に浮き上がる」
「よろこび…?」
「どう言う意味かお前も二十歳だ。分かるよな?」
「…うん」
「これは俺とお前との二人だけの秘密だ。…良いな?」
「うん、嬉しい…。これは僕と悠さんだけの秘密の刺青だ…」
神様の前で誓いのキスをするように、永遠を誓う指輪のように、兄と弟は背中に片翼づつ鳳凰を分け合った。
ずっと守って来たのに、ずっと心に刻んできたのに、片翼を失った絶望を乗り越えて漸く再び心から愛する人に捧げられるかも知れなかったこの背中を、むざむざこんな形でその翼を毟られる事になるとは。
激しく軋むベッドで、命の恐怖に晒され愛とはまるで違う狂気に穿たれながら撫川は悔し涙に唇を噛み締めた。
「うっ…!う、………ど、して、どうしてこんな事…っ!お願いだから…もう、やめて!」
「お前には分かるまい!ぬくぬくと鳳くんに愛されたお前になんか!
ボクは鳳くんの心には入り込めない事を分かっていた!愛を諦めたのに、二人で研究したあのインクだけを結実出来たらそれで良かったのに…あいつはそれすらも許さなかった!何故だ!!」
歪んだ愛憎を膨らませ、撫川の中をいっそう深く刺し貫くと、撫川の喉から引き絞るような叫び声が上がった。
「ンぅーーーッ!!!」
だがこれ程激しく突いても激しく腰を揺さぶっても、撫川の背には一向に刺青は浮いてこない。
ここに警察が来るのは時間の問題なのに、その前に何としてもひと目だけでも鳳の白粉彫を見たい!残された全てをこの瞬間だけに賭けた言うのに!
「鳳…、何か一つボクに、くれたって良いじゃ無いか!愛してたんだ…愛してたんだ…」
「……殺したくせに…!」
振り返り、肩越しに浅野を睨みつけた撫川の眼差しが、その放った一言が一瞬で浅野を凍らせた。
「悠さんは自殺なんかしない!悠さんを返してよ!」
「だ、黙れっ!ち、違う…!ボクは殺すつもりなんて…」
あの日、行方を晦ました鳳の居場所を突き止めて詰った。
契約を破棄したインクの事で口論になって、ただ脅すつもりで……なのにあの時誰かの気配がしたんだ。誰だ?それは誰だったんだ?
あの時、一瞬だけ鳳くんが怯んだ。冷静な男が動揺して…。
あれはやがてここに来るだろうその人を庇ったのではあるまいか。
それは誰だった?
目の前の撫川の唇が「人殺し」と動いた。
頭の中で、自分が鳳を刺してしまった時の状況が倍速再生される。何度も何度も繰り返し…。
撫川の怒りと怯えに震える瞳が浅野を見つめ、見つめて…。
「お前か…?あの時鳳くんが庇おうとしたのは…」
浅野は最後の細い理性の糸が切れた音を聞いた。
目の前に白い首が浮き上がり震える手がそこへと吸せられる。心臓の鼓動が脈を打ち、そして次の瞬間その細首を強い力が締め上げていた。
浅野の腕に巻いた包帯に見る見ると血が滲み、やがて肌を滴り始め、それは撫川の背中を首をそして頬を、ベッドを赤く染めていく。
悲鳴も上げられない撫川が最後の力を振り絞って抵抗すると、その縛られた手首からも血が滲む。
昔の自分ならあっさり命を手放していたかも知れないが、今は死ぬのが怖かった。
耳が遠くなり、意識が薄れ始め、久我と過ごした場面が走馬灯となって脳裏を駆けていく。
死にたくない、死にたくないよ…久我さん……。
「止めろ!浅野!!!」
誰かが叫んでいた。
何かをぶつけたような鈍い音が聞こえ、絞められた首がふっと解放された。ザーザーと耳に勢いよく血が巡る音が聞こえ、その向こうに久我の声をはっきり聞いた気がした。
「撫川!しっかりしろ!!撫川!!」
薄っすらと目を開けると直近で叫ぶ久我の顔が見え、撫川は掠れた声で久我を呼んだ。
「く…が、さ…ん」
「待ってろ!今はずしてやるからな」
結束バンドを切るための物を久我の視線が忙しく辺りを物色した。久我の足元にはこめかみから血を滲ませた浅野が倒れ、その脇には血の付いたワインボトルが転がっていた。
その近くに転がるナイフに久我が気付いて手を伸ばす。
だが素早くその手が掴まれた。
伸びていた筈の浅野がナイフを持った久我の手ごと抱え込み、二人は床に転がった。
浅野の血まみれたその顔が醜悪な笑みを浮かべて久我に馬乗りになる。久我の震える手がまだナイフを守って握られている。
「離せ!浅野!!」
「離すのはお前だよ!」
ナイフを奪い合って浅野と久我が上になり下になりと床を転げ回り、ほんの一瞬久我が隙を見せた瞬間に、ナイフの刃を掴んだ浅野が自らの流血も辞さずに久我の手からナイフを強引に引き抜いた。
ふらふらと浅野は立ち上がり、視線は撫川へと注がれた。
「一緒に死んでくれ!鳳!」
浅野の頭は完全に狂っていた。支離滅裂なことを叫びながら撫川目掛けてナイフを振り下ろしたその瞬間、久我が撫川を庇おうと目一杯身体ごと腕を伸ばしてそれを遮った。
久我の背広を突き抜けたナイフはその腕を貫いたが、それでも怯まずに今度は久我が浅野の腕を抱えて床に叩きつけるように背負い投げ、素早くうつ伏せに転がすと久我の膝が浅野の背中を押さえ込む。後ろ手に手錠をかけ転がっていた結束バンドで浅野の足首とベッドとを縛りつけた。警察で訓練された犯人逮捕術が初めて実戦で役立った。
撫川は目を見開いて泣いていた。自分の身の危険の恐ろしさではなく、一重に久我の身を案じる涙だった。
久我は覚悟を決めて腕からナイフを引き抜くと、そのナイフで撫川の結束バンドを切った。
解放された腕は痛みで動かすのもやっとの状態だったが、撫川は必死に久我を抱こうとしていた。
「貴方が無事で良かった…」
「…それはオレの台詞だよ。良く頑張った」
久我は着ていたジャケットを撫川の身体に掛け、その身体を片腕ではあったがしっかりと抱きしめた。
その頃になって漸く外でサイレンの音が聞こえ、何人もの警察官たちの靴音が聞こえて来た。
単独行動をまたしても怒られる事になるのだろうが、もしも自分が踏み込んだのが今頃だったらと思うとゾッとした。そう考えれば、久我はどんな懲罰を受けても良いと思えるのだった。
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