第五十話 春

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第五十話 春

どこかで鳥が鳴いている。春にはまだ早い弱々しい太陽が、柔らかく窓辺に降り注ぎ、白亜の病室で奏でられる看護師の声のトーンや、いつも薄らと漂う薬品の香りは何処か心地よいものにさえ感じて来る。 朝の回診を終えたばかりでまだ人の往来も少ない廊下、ナースステーションの前から看護師が誰かと話す声がする。 「今日は退院でしたね。さっきからお待ちかねですよ」 「どうも、お世話になりました」 声を嬉しげに弾ませたその人は、間も無くこの部屋にやって来て、優しく微笑み名前を呼んでくれるだろう。 「撫川、さあ家に帰ろう」 撫川は自分では気づかないうちにあちこち傷を負っていた。 肋骨二本、小指と薬指を骨折し、首の捻挫にあちこち打撲と酷い内出血。外からは見えないが、無理矢理中に押し入られたせいで強か内傷を負っていた。 二週間の点滴治療を終えて今日漸く退院する事になったのだった。 久我は自分も腕を刺されていたが、撫川が入院している間、毎日様子を見に訪れていた。だがそれも今日で最後だった。 「今日は取り敢えずオレの家に帰るが、落ち着いたらもう少し広い所にでも引っ越そう」 「…え、良いの?」 「何がだ?」 「だって、一緒に住む事になるって事はさ、それは…その、僕が久我さんの人生の一部になっちゃうって事で…そのっ…」 「嫌か?」 嫌な筈がない。 顔を真っ赤にした撫川が、綻んだ顔でぶんぶんと首を横に振っていた。 「そうなったら鹿島さんにも挨拶した方がいいのかな。 うわ〜緊張するなオレ」 「ふふっ、大丈夫だよ。さっき退院するって報告に行ってきたら久我さんに宜しくって言ってたよ」 「…はは…そ、そうか…」 久我はまるで嫁にくれと父親に頼みに行くような不思議な心境になっていた。 そう、撫川と鹿島、そして久我。三人は同じ病院で治療を受けていた。 撫川は全治二ヶ月。久我は全治三ヶ月。 そして鹿島はなんと奇跡的にその強靭な生命力で一命を取り留め、今や復活の兆しを見せていた。 「そっちはどう?浅野さんの聴取は進んでるの?」 「一進一退だな。恐らく精神鑑定は受ける事になるだろうと言う話しだが、罪の確定までは長い事かかりそうだよ」 「…そう。怖い目に遭ったけど、僕はあの人を憎みきれないんだ。僕が逆の立場ならきっとあんな風に狂っていたかも知れない」 そう呟いた撫川の髪に、久我が愛おしそうに口付けながら「そうか」と囁いていた。 あの日、逮捕された浅野は精神が不安定で、ちゃんと供述してみたり、黙り込んでしまったりを繰り返しているらしかった。 そんな辿々しい供述の中で分かったのは、浅野の店にたまたまタトゥーを入れに来たあのピンク頭のカオルを通じて、浅野は様々な情報を手に入れていたと言う事だった。 刺青の下絵を鹿島が部下を使って集めていたと言う事を知ると、それをダシに刺青者を誘き出して殺害して背中の皮を剥いだ事。 撫川と鳳が六年前から一緒に住んでいたと言う事や、二人が愛し合っていたと言う事も、カオルは浅野に話していたという。 それまで鳳を殺した事実に蓋をして六年間、息を殺して暮らしてきたのに、それを知った頃から浅野は良からぬ考えに取り憑かれるようになって行ったと言う。 だが、白粉彫りの話には皆一様にそれは浅野の妄想だと、物理的にあり得ないと言う見解に至ったのだ。 実際、あの時浅野とセックスをしても撫川の背中は何も変調を来さなかった。 白粉彫りなど都市伝説。浅野の幻の話だと言う結論に至ったのだった。 こうして撫川の背中の秘密は守られたのだが、その事で久我は一人、まだ悶々としていた。 撫川は確かに刺青を入れたと言っていたが、それを見る機会はなかなか訪れなかった。 撫川の傷が癒え、久我の骨折が治り、あの事件から間もなく三ヶ月が経とうとしていた。 「おう、久我!こんな日に署内でうろついていていいのか?お前、今日引っ越しだろう?」 所用を済ませた久我が警察署を出ようとした時、分厚い手で背中を叩かれ振り返った。 そこには後藤が、若い男を伴って立っていた。 「あ、お久しぶりです。ちょっと瀬尾さんに用事があって…」 久我の視線がその若い男に注がれている事を知って、後藤がその男の肩を引き寄せた。 「今春からマル暴にもぴちぴちの新人が来たぞ!ゴリゴリしごいてやろうかとな」 「か、片瀬と言います!よろしくお願いします!」 新人はガチガチな笑顔を浮かべていた。 「オレは一課の久我です。後藤さんの言うことは半分聞いて半分聞き流すと丁度いいよ。でないと、オレみたいに謹慎減俸の常習犯になっちゃうからね」 「久我!お前生意気だぞ!結果を出せば多少の事は許される。今回だって犯人逮捕でチャラにしてもらえたろう?俺の日頃の教示の賜物だな、感謝しろ」 「そうですね、オレは後藤さんにゴリゴリ扱かれて一皮剥けたましたからね。それじゃあ急いでるんで」 「お前、瀬尾に似て来たな!可愛くないぞ!」 新人に分かったかどうかは分からないか、微妙な下ネタなど交えながら久我は後藤を背にひらひらと手を振って歩き出した。 新人の片瀬は少し前の自分を見ているようで、何となくこそばゆい。新人とはこんな感じなのかと思うと同時に、少しだけ自分の成長を実感していた。 厳しい冬は過ぎ、今やもう春真っ盛りだ。 久我は新居で自分を待っている撫川を思うと、桜並木を歩く足取りも自然と軽やかになっていた。
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