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第五十一話 愛の翼
「これは久我さん、これは僕。これはキッチンで、これが寝室」
引っ越し荷物の整理をしながら撫川は浮かれた気分だった。
自分の部屋もワンルームだったし、久我の部屋もそうだった。引っ越してきた新居の2LDKは、二人にはかなり広く、まるで新婚さんの気分になっていた。
新しく家具を揃え、カーテンも二人で選んだ。そうやって、着々と二人の家になって行くと思うと、堪らなく幸せだった。
「…ふふっ、寝室。…僕と久我さんの寝室。そしてこれは、久我さんと僕のベッドだ!」
さっき届いたばかりのダブルベッドに両手を広げてダイブした。
「大きなベッドだ!これなら何やっても大丈夫そ、、」
撫川はうっかりこれからの夜の営みのことを考えて赤面した。
何をやってもだって…僕っていやらしい奴!
久我は実に真面目で紳士的で、撫川の身体が万全になるまではと、ひたすら我慢してくれていた。
大切にされていると嬉しく思う反面、焦ったくもある。
多少無理矢理にされても、どんな事を要求されても久我なら嬉しいのにと思う。
もう身体は何時でも大丈夫なのだが、なかなかそれを口に出す事が出来ない撫川だった。
健康な成人男子がもう三ヶ月以上、セルフセックスで我慢していた。考えてみれば、良く二人ともここまで持ち堪えられたものだ。
あの船の上でもう気持ちはとっくに久我のものだったのに。
そんな事を考えただけで下半身が疼き出すのも仕方ない。
ゆっくりと撫川の手が熱源へと伸びた。少し触れただけなのにそこは鋭敏に反応し、その行為に没頭しそうになったが、撫川ははっとなって自重した。
「ダメダメ!今日はダメだ!ちゃんと片付けて久我さんが帰って来たら驚かせてやるんだから」
勢いよくベッドから身を起こして飛び降りると、積んであった荷物の一部が落ちて、中身が足元に散らばった。
拾い上げてみるとそれはいつかの鳳の手紙の束だった。
旗から送られてきたその日にあんな事件に巻き込まれ、それからは気忙しさに紛れて中身を確認するのを失念していたのだ。
手紙は全部で十通ほどあり、きちんと封印がしてあった。
人の手紙を見るのは気が引けたが、宛先は自分だ。
なかなか片付けに専念できない撫川は、その封筒を開けていた。
懐かしい兄の文字だった。
そこには離れていた間、撫川の身を案じていた鳳の心中が認められていた。
貰われて行った撫川家からは里心がつくからと手紙は暫く遠慮して欲しいと言われていた事や、刺青を学んでみたいと思い始めた事。出す事を禁じられたその手紙は、まるで日記のように鳳のその時々の心情が綴られていて、気づけば夢中でそれを読んでいた。
撫川が家や学校に馴染めないでいた事や、虐めを受けていた事も鳳は知っていた。
連絡を取り合えない鳳が撫川を間接的にずっと気にかけてくれていた事が、その手紙達の中から読み取れた。
そして暴行事件があった頃の手紙には、撫川より深く傷ついている鳳が、どうやったら奈落の底から撫川を救い出せるのか苦悩していた姿が浮かび上がってくるようだった。
手紙が進むにつれて撫川を弟ではなく、一人の人間として深く思いを寄せていると言う告白になり、その背中に思いを込めた刺青を自らの手で入れてみたいと言う欲望と、だがそれは自分のエゴだと思い悩んむ心境が綴られていく。
そして最後の手紙には、蛍光インクを作る過程で偶然出来た透明インクのことが書かれてあった。
白粉彫りはもはや技術だけでは完成し得ず、偶然出来た副産物のインクとの併用によって為せるものと確信に至ったと書かれてあった。
そのインクならば刺青者と一生後ろ指を刺される事なく撫川の背に刺青を入れられる。
鳳はその副産物の透明インクに没頭するあまり、蛍光インクから関心が遠のいたと、すまなかったと浅野に詫びる言葉が綴られていた。
最初から鳳は撫川のことだけが念頭にあり、透明インクを語る事は、撫川への思いを抜きにしては語る事ができない。
浅野にその真意が分かる筈もなく、鳳の撫川を思う気持ちは一途過ぎた。
そして己の心を誰にも開く事が出来なかった頑なさが浅野を深く傷つけ、その気持ちを推し量ることが最後まで出来な無かった事でこの悲劇が起きたのではなかったのか。
この投函される事のなかった十通の手紙が全てを物語っていた。
そして一番最後の言葉はこう結ばれていた。
『二人の翼で共に飛べたなら、いつかはその背の片翼だけで力強く大空に羽ばたいて欲しい』と。
撫川がその背に背負ったのは、撫川を愛で縛る呪縛の翼では無く、兄が弟を思う深い愛の翼に他ならなかった。
開け放たれた窓からは緩い春の風が吹き込んでくる。
自分を縛っていた何かが、その風と共に何処かへと消え去り、重苦しい全てのものが身体から解放たれたような不思議な感覚を撫川は感じた。
呆然と立つその足元に風が運んだ桜の花びらが落ちている。
撫川はそれをそっと拾い上げた。
その時、玄関から愛しい人の声が聞こえた。
「ただいま、撫川」
その声を聞いた時、撫川の目から涙が溢れ出した。
幸せな涙よりももっと深い、万感の思いが込められた涙だった。
寝室に入って来た久我に、撫川が飛びついて抱きしめた。
「お帰りなさい…久我さん…っ」
「なに、どうしたんだよ?そんなにオレが居なくて寂しかったのか?」
久我は微笑みながら、その大きな掌で撫川の濡れた頬を拭った。
「そうだ、コレ、ずっとお前に返そうと思って忘れてたんだ」
そう言うと、ズボンのポケットから取り出したものを撫川の掌に置いた。
「これ、失くしたと思ってた僕のシュシュ…、どこでこれを?」
まだ涙目を擦りながら、掌のそれを握りしめて久我を見上げた。
「あのワイン蔵だよ。オレ、あそこに行ったの二回目だったんだ。
最初に行った時はこんなの落ちてなかったからさ…。地下の扉を隠してたビニールシートの前にそれが落ちてた。言わば、そのシュシュが君の命を救ってくれたと言うわけさ」
結局、自分は全てのものから守られていたのだと、撫川は気がついた。
こうして一度も見たことのない母からも結果的には命を守ってもらったのだ。
自分は最初から孤独なんかでは無かった。
「ありがとう」
その言葉は目の前の久我だけでは無く、全ての人に向けての『ありがとう』だった。
「久我さん、僕。
…貴方を愛してる」
撫川は伸び上がって久我に口付けた。全てがクリアになった今、撫川の心に残ったのはたった一人の男。
抱き合って互いを確かめ合った。久しぶりに情熱的な口付けを交わすと、すぐに心も身体も火がついた。もう二人を止めるものは何も無い。昂っていく二人の熱い吐息だけが互いを扇おり駆り立てた。
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