ブエルシナ島

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「すみません、もう大丈夫です」 「落ちついたか」 「はい。ありがとうございます。ええと……メイズ、さん」 「メイズでいい」  生粋の日本人である奏澄には、出会ったばかりの年上男性を呼び捨てることに抵抗があった。しかし、海賊ということは堅苦しいことは嫌いかもしれない。わざわざ断るのもどうだろう、と悩んだ結果、メイズ、と遠慮がちに小さく呟いた。  改めてメイズの姿を眺めて、我ながらよく声をかけたものだ、と奏澄は驚いた。  肌は日に焼けて浅黒く、目つきは鋭い。目の下の隈は色濃いままで、どうやら怪我の不調によるものではなく元々らしいことが見て取れた。年の頃は顔つきから三十代に思えるが、無精髭のせいか四十近くにも見える。短い黒髪をターバンでぞんざいにまとめ、服装は黒のパンツにブーツ、白のシャツとシンプルだ。それ故、唯一明るい色をした赤のサッシュベルトが目を引く。そこにあるマスケットは、依然強い存在感を放っていた。身長は一八〇に届かないくらいだが、奏澄よりはずっと高い。威圧感があり、一言で言ってしまえばガラが悪く、普段の奏澄なら絶対に関わらない種類の人間だった。 「名乗るのが遅くなってすみません。私は奏澄といいます。」 「カスミ、だな。詳しい事情を聞く前に、腹は減ってるか?」 「え?」 「軽くだが、食べ物を買ってきた」  メイズが取り出したパンの匂いで、奏澄は急に空腹を思い出した。緊張で忘れていたが、そういえば昨日から何も食べていなかった。ありがたく受け取って、それを口にする。  ――おいしい。  何てことはない食べ物だが、空腹に沁みた。食べ物が買えないなど、今まででは有り得なかった。有難みと共に噛みしめていると、メイズも隣に座り込み、同じように無言でパンを齧りだした。  水で喉を潤し、ようやく人心地がついた。脳に栄養が回った気がする。やはり人間、食を疎かにしてはいけない。  とっくに食べ終わっていたメイズは、黙って奏澄の様子を窺っていた。奏澄が切り出すのを待っているのだろう。何からどう話せばいいのか悩みながらも、奏澄は口を開いた。 「私、知らない世界に来てしまったのかもしれません」  それを聞いて、メイズは眉を寄せた。何と返したものか、迷っている風情だった。言葉選びを間違えてしまったかもしれない、と慌てて奏澄は取り繕う。 「あ、えと、変なこと言ってますよね! 自分でもおかしいとは思うんですけど」 「遠い所から来たとか言ってたな。どこから来たんだ?」 「え? あ……日本、という島国なんですけど」 「ニホン……聞いたことがないな。どこの海域にある」 「その、海域……というのは、太平洋とか、大西洋とか、そういう……?」 「どんな僻地の島でも、どこかしらの海域には属しているだろう。今いるのは赤の海域、ブエルシナ島だ」 「あかの……海域……」 「……わからないのか」  このやり取りで、メイズは奏澄が『海域』という概念そのものが理解できていないことに気づいたらしい。最初の女店主と同じだ。きっと、ここでは常識なのだろう。何となく恥ずかしい気持ちになって、奏澄は俯いた。それをメイズは笑うでもなく、木片を手にすると地面に簡単な図を描きながら、淡々と説明を始めた。 「把握されていない島も含めて、ほぼ全ての島が六つの海域のどこかに属している。赤の海域、緑の海域、青の海域、金の海域、白の海域、黒の海域。この海域を分けているのは白の海域にある『セントラル』という大国だ。実質世界を取り仕切っている。唯一大陸を持っているからな」 「唯一……じゃぁ、他に大陸はないんですか?」 「ああ。全部島だ。その数も位置も全ては判明していないが」  図によると、大雑把に地球で言うところの南極に白の海域、北極に黒の海域があり、残りを緯度で四分割して赤、緑、青、金に分けているらしかった。  改めて説明されて、いよいよ奏澄はここが別の世界なのだと確信した。何もわからないから、ぼんやりそうなのではないか、という思いはあったが、信じ難かった。しかし、世界に大陸が一つしかない、などと言われて、自分のいた世界だと思えるだろうか。過去にタイムスリップしたにしても、そんな歴史はなかったはずだ。『セントラル』なんて国も聞き覚えがない。世界を統治するほどの国名ならば、忘れるはずがない。 「私の……いた()()には、大陸は複数あって。一つの国だけが世界を治めているなんてことも、なくて。そもそも、私の国……日本だって、それなりに有名な国なんです。名前を出せば、政府が助けを手配してくれる程度には。だから、ここは……()()()()は、多分、私のいた世界とは……」 「違う世界だ、って?」  言葉に詰まった奏澄の台詞を拾うメイズに、奏澄は頷きだけで返した。別の世界から来たなんて、頭がおかしいと取られても仕方ない。実際、気が狂ってしまったのかもしれない。あるいは、やはり夢でも見ているのか。 「それで、お前はどうしたい」  驚いて、奏澄は勢いよくメイズの顔を見た。 「なんだ」 「え……あ、その、信じるんですか……?」 「嘘なのか?」 「違います! 本当です……けど、でも」 「何が起きても不思議じゃない。そういう場所だ、海ってのは」 「そ、そうなんですか」 「それに、例え騙されていたとしても、それは俺の見る目が無かったってだけの話だ。――だろう?」  自分の言った言葉を冗談混じりに返されて、奏澄は驚きに目を丸くした後、込み上げてくるものを堪えながら微笑んだ。 「自分を信じてくれる人がいるのって、こんなに、嬉しいんですね」  寄せた信頼が、そのまま自分に返ってくる。メイズが、奏澄の鏡となってくれている。姿を映して、自分の存在が、自分にもわかる。それが、とても心強かった。 「私……私は、元いた世界に、帰りたいです」  突然放り出されてしまった世界。けれど、自分が生まれ育った世界だ。自分を作ったもの全てがそこにある。ならば、帰るのが道理だろう。 「わかった。なら、方法を考えないとな。何か心当たりはあるか?」 「心当たり……と言われても」 「何でもいい。そもそも、お前はどうやってここに来たんだ?」 「どうやって……。ええと、高台から、海を、眺めていました。そうしたら、突然、誰かに突き落とされて……気がついたら、この島の海辺にいたんです」 「突き落とされた? 相手は?」 「見ていません。押された、と感じただけで、本当に人がいたかどうかも定かではなくて」 「そうか……。他に何か気づいたことは?」 「すみません、特には……」  あまりの情報の少なさに思わず俯いてしまう。思い返しても、何の手掛かりも浮かばない。本当に突然のことだった。人為的なのか、事故なのかすら判別できない。  奏澄の知識で考えるなら、神隠しといったところだろうか。ファンタジーな発想だが、現状が充分ファンタジーだ。鳥居、トンネル、森。現世(うつしよ)との境目と呼ばれる場所は数多くある。それが今回は海だったのかもしれない。 「メイズ、には、何か心当たりはありますか? 例えば、別の世界から人を呼べる魔法があるとか、そういう場所や道具が存在するとか」  名前をスムーズに呼ぶには、まだ幾分か慣れが必要そうだ。ほんの僅かつっかえてしまったことに恥ずかしさを感じながらも、奏澄は平静を装った。  聞かれたメイズは、少し考え込むようにしながら言葉を発した。 「魔法を使えるって話は聞いたことが無いな。セントラルの奴らなら、そういう研究をしている可能性も無くはないが、少なくとも表立っては無い」 「セントラルでは、そういう超常現象的なことは『有り』なんですか?」 「『有り』かどうか聞かれれば、基本的には『無し』だ。ただ、白の海域は大昔、神や天使が存在していたと言われている。まぁ、神話レベルの話だが、あそこは秘密主義でもあるから、絶対に無いとは言い切れない、というところだな」 「神話レベル……。伝承や、御伽噺(おとぎばなし)のレベルなら、別世界から人が迷い込んだ話はありますか?」  記憶を辿るように目を伏せ、暫く沈黙した後、思い当たることがあったのか、メイズは口を開いた。 「御伽噺というか、噂話なら聞いたことがある。酒場で海賊に聞いた、眉唾ものの話だが」 「! どんな話ですか」 「この世界は、さっき言った六つの海域に分かれている。だが、それとは別に世界のどこかに『無の海域』が存在し、その海域には『はぐれものの島』と呼ばれる場所がある、という話だ」 「はぐれものの……島……」 「無の海域に入った船は突然姿を消してしまうとか、逆に奇妙なものや人が現れるとかで、異界に繋がっている場所なんじゃないかという噂らしい。そして、消えたり現れたりした、文字通り『はぐれた』ものたちが集まって暮らしている島が『はぐれものの島』だそうだ」  異界と繋がる場所。近づくと船が消える海域。バミューダトライアングルのような場所だろうか、と奏澄は解釈した。 「未知のものが大量にある島が手に入れば、一攫千金が狙えるとかいう夢物語だったからな。すっかり忘れていたが……。今のお前の状況を考えれば、全くの無関係でもないかもしれない」 「他に、手掛かりは何もないんです。なら、行きたいです。その場所へ」  力強く訴えた奏澄に、メイズは渋い顔をした。てっきり即答してくれると思っていた奏澄は、内心焦った。やはり、あるかどうかもわからない場所へ行きたい、というのは無謀が過ぎたのだろうか。 「無の海域を探す、ということは、海に出るということだ。海には危険も多い。お前には……似合わない」  ゆらり、とメイズの瞳の青が揺らめくのを見た。奏澄は、その瞳に、海を見た。 「そうだ、どこか腰を落ちつける場所を見つけて、そこで情報を集めてもいいんじゃないか。場所がはっきりしたら向かえばいい」 「いえ、行きましょう。海へ」  メイズの言葉を遮るようにして、奏澄は言い切った。驚いたメイズの視線を、真正面から受け止める。 「……お前が思っているほど、海は優しいところじゃない」 「わかっています。でも、海賊でなければ海に出られない、というわけでもないでしょう。危険はあるかもしれませんが……メイズが、守ってくれるんでしょう?」  全幅の信頼を寄せた笑顔に、メイズの目が釘付けになる。 「私、海が好きなんです。陸でも海でも足手まといなことには変わりないんですから、どうせなら好きな方が頑張れると思うんです」 「……わかった。用心棒をやるって約束だしな。命に代えても守ってやる」 「命には代えないでください。それは約束違反です」 「あぁ?」 「傍にいる、という約束でしょう。それが最優先です」 「――……。わかった」  その返答に、奏澄はほっとしたように笑みを浮かべた。この人はきっと、口にした言葉を違えない。そう思えたからだ。  メイズの表情を窺えば、心なしか嬉しそうに見えた。奏澄は、自分の選択が間違っていなかったことに安堵した。  メイズは海賊だ。長い間、海で暮らしてきたのだろう。ならば海に焦がれるのは当然だ。奏澄の傍にいるとは言ってくれたが、できることなら海に出たいはずだ。  だが、奏澄は見るからに平凡な一般人でしかない。海での長旅に耐えられないと判断したのだろう。奏澄のために、メイズは海を諦めようとした。  奏澄は、メイズから海を奪いたくはなかった。海の瞳を持つ人を、どうして海から引き離すことができよう。  だから、自分から海へ出たいと告げた。わがままだと思われても、それだけは通したかった。海が好きだというのも嘘ではない。  未体験の船旅に不安も緊張もあったが、恐怖は無かった。メイズが共にいてくれるのなら。
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