グラスの氷が溶けるまで- LAST KISS Ver. -

1/1
前へ
/1ページ
次へ
スラリとした長身の男が一人、海が見えるホテルのチェックインを済ませる。 宿帳には綺麗な字で 廉木柾隼(かどきまさはや) と記す。 「また、来て頂けて嬉しいです。廉木様」 宿のご主人が静かな口調で話しかけて来た。 「憶えていて下さったんですね」 手荷物を整えながら、柾隼は応える。 「それは勿論。毎年この時期に欠かさず来て頂いておりますし」 「ええ。そうですね」 「今年もゆっくりお寛ぎ下さいませ」 「はい。お世話になります」 彼は店主から渡された部屋の鍵を受け取り、フロントを後にした。 柾隼から漂う、憂いに似たオーラは何故か周りの空気を冷たく震わせていた。 今晩泊まる部屋の扉が開く。 「今年もまた、此処に来る事が出来たんだな」 宿の中で一番人気の高い美しい海が見える角部屋。 広々とした部屋に足を踏み入れ、彼は荷物を置くと、一呼吸を置いてからベランダへと繰り出す。 ドアを開けた瞬間、夕陽の覗く、気持ちの良い海風が髪を撫でる。 柾隼は目を閉じ、その感覚を味わう。 身体の奥底から温かさが湧いてくる気がした。 すると柾隼は、ポケットに忍ばせていた小さな箱を取り出し、そっと手すり 部分に置いた。 そこは丁度、彼の腕が置きやすい高さで、思わず「うん、良い感じ」と呟いた。 そんな箱に収められていたのは一つの指輪であった。 それと同じものが柾隼の左手に美しく輝く。 「リュウ。俺、いつの間にか35歳になったよ。お前は元気にやってるか」 柾隼はその指輪を右手に掲げ、その穴から赤く燃え上がる夕陽を覗く。 今日は彼の想い人がこの世を去ってから三年目の夏だった。 彼の名は早瀬柳希(はやせりゅうき)。 柾隼の全てを捧げた愛しいヒト。 彼は目鼻立ち良い整った顔つきで、少しだけ柾隼より背が低く、大袈裟に言えば天使のようなヒトだ。 二人は大学生の時に出会った。 同い年で話も合い、似たような趣味を持つ事からあっと言う間に友人となった。 そして、彼らは自然と惹かれ合い、友人から想い人へ移り変わる。 それはまるで前世から硬く結び付いた赤い糸のように決して離れる事はなかった。 身も心も何もかも、本当に全てを晒し合った。 社会人となり仕事をするようになっても、彼らは離れず、一緒に暮らすようになると、二人の絆はより強固となった。 日を重ねる度に、愛する気持ちは濃度を高め、互いの心を彩っていく。 そんなとある夏の日。 柳希の三十歳の誕生日に、柾隼は彼にプロポーズをした。 本当は恥ずかしかったが、自分の気持ちをどうしても伝えたかった。 「はい。勿論だよ」 柳希は戸惑いながらも、笑顔を見せながら大きく頷いてくれたシーンは、いつまでも忘れる事は出来ない柾隼の大切な想い出の一つだ。 「いつまでも僕と一緒に居てね、柾隼!」 「ああ。ずっと幸せで居ような、柳希!」 その時、二人が抱き締め合った感覚は一生忘れることはないだろう。 だが、彼らの幸せは長くは続かなかった。 「マサ。僕、病気だったみたい」 とある日のこと。 夕飯を一緒に食べていたある時、ボソリと柳希がそう呟いた。 職場で受けた健診結果が書かれた紙をそっとテーブルに差し出す。 「もう、長くないんだって。だからさ、マサ。残りの時間、ずっと一緒にいよ?」 彼は急性白血病だった。 その病に気付いた時には、すでに彼の身体中に癌は転移しており、手術不可能な状態だと言う。 一度も病院に行ったことのない程、健康体の柳希を襲った病。 これから一緒に人生を謳歌していこうと決めた矢先の出来事。 その現実は余りにも神様の仕打ちにしては残酷で苛烈過ぎた。 「そんな事、あって堪るかよ! そんな事…そんな…」 柾隼は柳希の元に駆け寄り、強く抱き締めながら、声と涙が枯れるまで泣き続けた。柳希も彼の痛ましい姿と自分の人生がもうすぐ終着点を迎える現実を受け止められず、静かに涙を零すのだった。 それから柳希は仕事を辞め、少しでも病に抗おうと治療を開始した。 柾隼もなるべく彼と一緒に居る様に勤めながら、仕事も完璧にこなした。 そして二人は毎日必ず行うルーティンを決めた。 【どんなに忙しくても毎日一回抱き締め合う事】 柳希の匂い、声、体温。 柾隼は彼の何もかもを優しく包み込み、味わい、その身体に刻み付ける為に。 だが、日に日に彼を抱き締める身体は細く、弱々しくなっていった。 日を重ねる度に柳希から生の熱量が失われていく気がして、柾隼の心は締め付けられていく。 それでも柳希はその手を重ね、嬉しそうに身を柾隼に委ねて来る。 二人は少し高い高性能のカメラを購入した。 互いに気が向いた時に撮り合い、ファインダー越しに愛するヒトを覗く。 ちょっと間抜けな顔、真剣な顔、泣きそうな顔。 どんな表情も、その一瞬がとても美しい絵画のように思えた。 それから二人は時間が許す限り、あちこちへ出掛けた。 勿論、カメラを持って。 近くのスーパーの買い物すら旅行気分を味わえたが、やはり遠出は楽しかった。柳希の身体を労わり、無理のない範囲で。 風光明媚な景色を二人は決して忘れぬよう、しっかり心と瞳と、カメラに刻み付けた。 そして、病名発覚から約半年後。 柳希は柾隼の腕の中で静かにその生涯を終えた。 夏の夕陽に染まった海を一緒に見ながら安らかに。 病に抗う事は出来なかったが、眠るような最期だったのは今となっては良かったのかも知れない。 その日は丁度、柳希の32歳の誕生日だった。 そんな想い出に浸りながら、柾隼は持ち込んだウイスキーのボトルを開ける。 それは柳希の生まれた年に醸造されたものだった。 冷たく大きな氷をグラスに入れ、芳醇な香りを放つウイスキーを注ぐ。 琥珀色に輝くグラスを夕陽に向けると、その光は乱反射して、まるで万華鏡のように輝いた。 彼は同じものをもう一つ作り、そっと手すりの所に置く。 「乾杯。リュウ」 グラスがぶつかる音が辺りに少し寂しく響いた。 柾隼は一気にそれを飲み干し、大きく息を吐く。 柳希はとてもお酒が好きで、良くウイスキーを嗜んでいた。 「やっぱり、ウイスキーってさ。トリプルカスクじゃないと駄目だよね」 たまにそんな事を彼が呟いていた事を何故か今、思い出した。 柳希と晩酌を共にすることで、いつの間にか苦手だったウイスキーを柾隼は呑めるようになっていた。 今では美味しいと感じるまでになったぐらいだ。 その時、カランと氷が溶ける音がした。 (へぇー。結構良いお酒じゃんか。マサもやっと分かって来たじゃん!) 突然脳裏にそんな言葉が浮かんだ。 思わずハッとして、隣を覗いてしまう。 勿論、そこには誰も居ない。 だけど、彼の気配がしたように思えた。 本当は今すぐ目の前に広がる海にこの身を投げ出して、愛する柳希が居る世界に行きたい。 彼の居ないこの世は余りにも虚し過ぎるから。 でも、それは彼が望んでいる事ではない。 「泣くんじゃないよ。マサは、僕の分まで、生きて、欲しいんだ」 柾隼の頭を愛おしそうに撫でながら、柳希の美しい笑顔を向けられたまま、最期にそう言われてしまった以上、この命を無下には出来ない。 彼との決して破る事の出来ない大切な約束だから。 「ずっと大好きだよ、マサ。僕の、大好きな、ヒト」 彼との最期の口づけはとても優しく、儚く、甘美的であった。 柾隼は、自らの唇に指を這わせ、その感覚を思い出した。 「俺もだよ、リュウ。いつまでも、いつまでも…」 柾隼はそう言って、静かに涙をこぼす。 一年に一度だけ、この日だけは柳希に想いを馳せながら、柾隼は人知れず泣き崩れる。 そう決めたから。明日からまた強く生きて行く為に。 そして、彼と過ごした楽しかった想い出を噛み締める為に。 彼の頬を伝う涙は、海風に舞い、シャボン玉のようになって弾ける。 (全く。あれほど泣くんじゃないって言ったのに…) そんな彼の背を、左手に指輪をはめた柳希が彼に気付かれないように優しく抱き締め続けていた。 そう、グラスの中の氷が溶けて無くなるその時まで。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

9人が本棚に入れています
本棚に追加