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「ホテル、」
「え?」
「行こう。」
「な、」
「行けないの、俺と?」
「え、あ、ううん、そう言うんじゃ―」
「なら行くぞ。」
記憶の通りの細い手首を引っ張る。アテなんて無い。俺だって紫帆以来誰とも付き合ってなんかいないから、経験なんて無い。だから闇雲に歩き回って結局丸山町に落ち着いた頃には俺も紫帆も疲れて切っていた。訳のわからない衝動に駆られて紫帆をベッドに押し倒した。
「た、たか、く、」
知るか。呼ぶな、そんなに、昔みたいに。胸が苦しくて頭がヘンになりそうで心臓が飛び出しそうで。
―大事にしたい。大切なんだ、紫帆のことが―
ガキの頃の俺の声が響く。震える手を紫帆の洋服にかける。
―でもしない、紫帆を傷つけたくないんだ。それだけはしたくない、何があっても―
くっそ。紫帆じゃない。高三の俺がじっとこっちを見つめている。
「…ごめん。もう行って良いよ。」
紫帆の両手を取ってベッドに起き上がらせた。何をやってんだ、俺は。恥ずかしさにいたたまれなくなる。なのに、紫帆がかぶりを振った。何度も。
「いや。」
「え?」
「貴くん、好きなの。ずっと好きなの。だからもう離さないで、お願い。もうすれ違いはいや。耐えられないの。」
気付けば今度は俺がベッドに倒されていた。
「…でも紫帆は俺じゃないよな?他の男を選んだじゃん。」
「ごめんなさい。でも選んだんじゃないよ?ちょっと良いかなって思ったくらいで。同じクラスだったしずっと一緒で。本当にごめんなさい。バカだった。貴くんが私を大事にしてくれるのを鼻にかけてた。くだらないよね。でもね、他の誰も好きになれなかった。それは本当。だから…何にも経験無いの。こうしてたって次にどうしたら良いかなんてわからない。」
そう言うなり、紫帆は俺の胸に顔を押し当てた。あざとーい。そんな風に言う女もいるかもしれないけど。でもそれでも、俺は紫帆が良いんだ。紫帆しかいないんだ。それ以外誰にも心が動かないんだ。ガキのままの俺が紫帆だと、紫帆しかいないと叫んでいるんだ。
「俺なの?」
「貴くんしかいないの。」
結局その瞳に見惚れた俺が負けだった。高一の時に見惚れたまんまの綺麗な黒い瞳に。
「ならもう一度始めよう。」
俺は起き上がって紫帆のおでこに唇をつけた。そして笑った、心から。世界が色付くってこういうことか。ようやくその意味がわかった気がした。
降り続く雨音の中で。七年経って。
梅雨、最高じゃん。
ー終ー
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