9.七年経っても

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「先輩?紫帆、先輩?」 しとしと降り続ける雨に息苦しくなって廊下の壁に寄りかかっていたら、ななしの声が聞こえて来た。社食でバッタリ出会った時にはびっくりしてでもとても嬉しく、そして苦しくなった。貴くんのかけらがその辺に漂い始めた気がして。ななしが貴くんの親友の村上くんと付き合い始めたのは、私達女子部員の中でもちょっとしたニュースになった(春秋冬美(ふゆみ)だから夏無しで青南(あおなん)では“ななし”と呼ばれていた。) 「マジ、あの村上が?」 「え、なに女子とかちゃんと認識してたわけ?」 「ななしヤバイ、チャレンジャーすぎ。」 とかさんざんな言われ様だった。 「あ、うん。だ、い、じょぶ。」 「え、全然大丈夫じゃないですか。顔真っ青。息出来ます?はい、吸ってー吐いてー。」 ななしが一緒に深呼吸をしてくれるのに合わせていたらだいぶ落ち着いてきた。 「あ、りがとう。うん、もう、平気。」 背中にそっと置かれた温かな手にホッとする。 「先輩、まだ、なんですね。」 手と同じくらい気遣ってくれる声に顔を見やれば、ななしが唇を噛んでいた。 「高三の時からずっとですか?ものすごく痩せちゃったし。」 「いや、ものすごくって事はないよ?しかもあの頃は部活で食欲旺盛―」 「私は今でも食欲旺盛ですって。」 ヘンな所で胸を張るななしは高校の時から変わらなくてまたホッとした。 「わかりました。」 「へ?」 きっぱりと頷いている。 「任せといて下さい。亮≪りょう≫と私に。」 「り、亮ってアノ村上くんに?」 「先輩、そこはかとなく失礼ですよ。」 「ごめんごめん。だって村上くんに任せられるって言ったら、何だろ、部活とか仕事?」 はい、ものすごく出来るんですよ、バリバリ。ま、でもそのせいで二人の時間あんまりとってくれられないんですけどねと、今度はふくれている。 「いや、ともかく。大船に乗った気持ちでいて下さい。それから、」 「うん。」 「息が苦しくなったら夢野さんのスマッシュ思い出して。カッコ良かったですよね、背筋が限界まで伸びて。いつもちゃらんぽらんなくせに(あ、すみません)、ここぞっていう時は決める。あのスマッシュです。」 言われるままに目を閉じた。すぐに浮かんでくる、何も忘れちゃいない。貴くんの目が強くなって口元が引き結ばれてぐんと腕が伸びて。ななしが言うように最高にカッコ良かった。胸が熱くなった。貴くんの熱にくるまれて、身体が発火したみたいだ。氷のような身体の芯に一筋の熱が届き始めた。何度も頷く。 「うん、カッコ、良かった。」 「うんうん、そうですよね。でも今はもっとカッコイイですよ。」 「え?」 今、今って言った、ななし?にんまりとしている瞳を覗き込めば、うくくと笑っている。うくく? 「一ツ橋銀行の渋谷支店。」 「一ツ橋ってあの一ツ橋グループの?」 「はい。やっぱり夢野さんはここぞという所で実力発揮しますよね。大学時代だっていつも適当に見えたのに押さえるとこ押さえてるし。」 私の全然知らない七年間の貴くんが立ち上る。貴くん、会いたい、会いたいよ。どんな大人になったのか、今どんな顔をしているのか。何でもいい、ともかく今の貴くんに会いたい。想いが膨れ上がる。そんな私の顔をじっと見つめていたななしが再び頷いた。 「よし、私、今夜亮に連絡します。だから先輩もつるピカになっておいてくださいよ?」 「つるピカ?」 「はい、今結構先輩ヨレヨレのしわしわですから。」 「え?」 「+五歳は確実です。いいですか、今週末、エステ、ネイル、美容院、全て済ませて下さい。備えましょう、全力で。七年間のつけは大きいですから。」 両肩をガシッと掴まれる。 「つけって…」 何だかななしが村上くんに重なる。こんなに押し強かったっけ?確かに明るい子だったけれど、この力強さはどうだろう。 結局私は春秋の頻回なチェックに頷く形で、その週末全てのノルマをこなした。そうして10日間が過ぎた頃、SMSが届いた。 ―先輩っ、今週土曜6時15分外苑のダイナー集合決まりましたっ!金曜夜、もう一回エステ行っときましょう。いいですね?― え、またエステ?いやまだ十分ピカピカしてる気がするんだけど…一大事から目を背けるためにそんなことばかり心の中で繰り返した。そうでもしないとまた息が苦しく―え?ならない、胸が痛くならない。何でどうして?この七年間習い性のようになってきたあの痛みがみじんも感じられない。まるで光の中でスマッシュを放つ貴くんが守ってくれているようだった。 調子良いよね、やっぱり。勝手に許された気になって呼吸すら楽になって。何度もキャンセルを伝えようとななしのアドレスをタップしようとしては止めて、そんな事をグズグズと繰り返しているうちに当日になってしまった。どうしよう。本当に会えるんだろうか。鏡の中の自分を見つめると怯えたような情けない瞳が見返してきた。どうするの?行くの行かないの?覚悟はあるの? 最後に見た貴くんの笑顔が、何度も思い出してきた笑顔が目の前に浮かぶ。わからない、何で貴くんがあの時微笑んだのか。確かにいつでも陽気で明るくてよく笑う人だったけど、でもあの時の笑顔は、涙のかたまりで出来ているみたいな凄みのある笑顔だった。 覚悟あるかな。あの笑みに応えるくらいの覚悟が私に。自分の虚栄やだらしなさをちゃんと謝ることが出来るくらいの。まだ高校生だったのに全身で大切にしてくれた彼に。逃げるな、これ以上卑怯者になるな。両頬を叩いてもう一度鏡の自分を見やる。 頑張れ、行け、紫帆。
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