10.a man who smiles at any cost

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「あ…」 喉が張りついた俺の代わりに遠慮がちな声が小さく響いた。 「―帰る。」 「それは無しだな。」 がっしりと肩を押さえつけられて硬い座布団もどきに座らされた。 「すみませんっ、夢野先輩。でも私どうしてもお二方に司会して欲しくて。」 春秋がコメつきバッタのように平身低頭している。 「ど、うして…?」 信じられな過ぎて、気持ちがせり上がり過ぎて、ろくな事が喋れない。“口から生まれてきた”夢野と教師たちの間で異名をとっていた俺だと言うのに。 「ごめんね、あの、私が―」 「冬の職場での先輩なんだよ、真田は。すげえ偶然だろ?」 そう言われて、はいそうですかと言えるか。紫帆だぞ、目の前にいるのは。俺がガキの頃、死ぬほど恋焦がれた、将来を勝手に誓った。あの時の身を切るような辛さは忘れようがない。それからどんな女性にだって心が動かなかった。もうこのまま恋愛と無縁でも構わないと思った。なのに、何なんだ?このお手軽さは。 「夢野、」 「何だよ?」 真っ黒な目が、聞けと言ってくる。 「誰も好きになれなかっただろ、この七年間。」 「バッ、」 カにすんじゃねえと言おうと思ったのに、親友の真剣な眼差しに呆気なく言葉が霧散する。 「梅雨になる度に具合が悪くなるじゃねえか。全部真田のせいだろ?」 「―紫帆のせいなんかじゃない。」 気付けば言い返していた。紫帆。七年も経って気味が悪い。 「ごめん。ええと、真田さー、」 「貴くん、」 「え?」 間髪入れず呼ばれた名前に脳みそがフリーズする。どれくらい告白されても全然心が動かなかったと言うのに、たった一言呼ばれただけでこの体たらくとは。 「紫帆先輩、すっごくモテるんですよー、うちの会社でも。だけど全然なびかな、」 場違いに能天気な高い声がさえずっている。 「冬、」 「ん?」 いいから、二人にしとけって、と無粋な大声も聞こえてくる。そういう事は普通小声で済ませるもんだろうが。安全牌に向かってだけ毒づける俺はどうしようもないほど小心者だ。 「村上、」 「おう、何だ?」 「ちょっと外出てきて良いか?」 勿論だ、傘持って行くかと世話焼きキャプテンそのものの返しが戻ってきた。 「し、真田、さん、良い?」 綺麗過ぎて、思い出の中そのまんまの紫帆を直視なんて出来ずに、目の前の楊枝入れに向かって言葉を放った。あ、うん、と空気が動いて紫帆が立ち上がった。昔から変わらない甘い香りに眩暈がしそうになった。
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