10人が本棚に入れています
本棚に追加
3.素直と衝動
それからは夢のような毎日だった。
家族以外に、いやそれ以上に味方になってくれる人間がこの世に存在するなんて。俺の言うことにいちいち嬉しそうに頷いてくれて笑ってくれて。彼女の瞳に映る自分が信じられなかった。彼女さえ隣にいてくれれば何でも出来そうな気がした。その笑顔を見る為なら何だってする。毎朝そう思って起きたし、毎晩そう思いながら眠りについた。
「貴くん、女子の筋トレのメニューなんだけどちょっと見てくれる?」
三年生が夏の大会で引退して、紫帆が女子部長になり、案の定村上が男子部長になった。部活が休みの放課後、紫帆の教室に迎えに行くとびっしり書き込まれたノートを見せられた。
「でも俺下っ端だけど?」
「副部長でしょ?だったら、」
少しふくれた頬に指を滑らせる。吸い付くような紫帆の肌に。それだけで真っ赤になる。
「紫帆、可愛い。」
「もう、真面目に見てよ。はい、これ。」
無理やり手に握らされる。几帳面な性格のままの端正な文字が並んでいる。
「んー、良いんじゃない?」
適当に言ってまた頬に手を伸ばすと、
「もう、ダメだって。ここ教室。」
伸ばした手をかわされる。
「ちゃんと見てくれないと一緒に帰らないから。」
「残酷なこと言うねえ、紫帆ちゃんは。」
これ見よがしに溜息をつきながら、かろうじて片手で掴んでいたノートに目を落とす。
「うわ、スクワットと腹筋の回数多くない?男子でもきつそうだけど。」
「でも体幹に効果的だから。」
「いや、そうかもだけど一年には初心者もいるからいきなりレベル上げるときつくない?」
途端にジロリと見上げられた。
「一年の初心者って、誰のこと言ってるの?」
「へ?」
「荻野さん?」
「は?」
「よく指導してるもんね。」
「いや指導って。特に荻野さんだけにしてる訳じゃないだろ?村上だって―」
「村上くんは女子が委縮しちゃうからダメ。」
「ダメって。それあいつ結構傷つくよ?って言うか、紫帆は大丈夫じゃん。」
「私は部長だもん。」
口を尖らせているのすら綺麗だ。紫帆に欠点なんてあるのだろうか。それに。
「もしかして妬いてる?」
顔を近づけると慌てて飛びのく。
「ち、違うし。」
「ほんとに?」
「うん。」
「じゃあもうちょっと指導してもいい?」
「えっ?」
「荻野さん、手打ちだからちょっと肩を支えて力の入れ具合を見て上げると―」
「いいいいいいっ、私がやる。」
「そう?」
何度も深く頷いている。やっぱり紫帆は可愛い。
「貴くん、ニヤけてる。やらしい。」
「やらしいか?」
「うん。最近特に貴くんはやらしい。」
プリプリしながらノートを閉じている。いつもよりガタガタと音を立てながら荷物をかき集めて乱暴に席を立った。
「怒ってんの?」
かがんで顔を覗きこむと、もういいってとカバンを俺の側に掛け替えた。目が尖って唇が引き結ばれている。おまけに速足だ。と言っても20センチ以上差がある紫帆には簡単に追いつけるのだけど。理由なんてさっぱりわからないけど怒ってる紫帆の背中を見下ろしながら後ろを歩いた。怒っていたって拗ねていたって全然構わない。一緒にいられればそれで。そんなことを思いながらのんびりと歩いた。二学期はまだ始まったばかりで、夕暮れは十分夏を引き摺っていた。
青山通りまで来た時、紫帆の背中が一瞬強張って躊躇したように立ち止まったけれど、それからずんずんと地下鉄の入り口の方へ歩き出した。
「紫帆、」
ずんずん。
「紫帆って、」
追い付いて腕を軽く取ると振り払われた。
「ちょい待って。歩いて帰るんじゃないの?」
紫帆のうちは宮益坂を上ったところにあって、神泉の俺の帰り道とも言える大変都合の良い場所にあった。だからいつも青山通りを抜けて一緒に歩いて帰った。それすら何かが味方してくれているような気になる。
「…」
「どうした?」
覗き込もうにも深く頷いてしまって顔が見えない。仕方なくそっと顎に指を添えて上を向かせた。大好きな紫帆の瞳がいつにも増して光って、え、光って?目尻にキラキラしたものが溜まっていた。
「し、ほ?」
とうとうしずくが一筋頬に落ちた。片方の目からももう一しずく。
「え、待って、どうした?俺何かした?」
慌ててごしごしと紫帆の頬を拭う。拭っても拭っても流れ出る。女子の涙腺機能ってどうなってんだ?滅多に泣き顔なんて見ない妹は、一番身近な女子のくせにさっぱり役に立たない。全く。妹に八つ当たりしながら、闇雲に両手を動かしていたら、
「い、」
小さな声が聞こえて来た。
「い?」
「たい、痛い、貴くん。」
痛い?え、また何で?分からないことだらけで固まっていると、
「顔痛い。」
今度ははっきり聞こえてきて慌てて手を離した。
「ごめん。」
ううん大丈夫とまた下を向いてしまった。
「紫帆、ごめん。でも何で?何で泣くの?」
紫帆の泣き顔なんて通行人に見せたくなくて、そっと身体で包む様に囲った。小さな身体の震えが止まるまで突っ立ていると、夕暮れ時の青山通りの喧騒がどこか遠くの出来事のように思えてくる。ぼうっとして頭に霞がかかり始めてきた時、腕の中で紫帆が身じろぎをして我に返った。
「ご、めんね。」
鼻声が胸から聞こえてくる。
「いや全然。」
「あの…」
「うん。」
「やっぱりいい。」
「え?」
「もう大丈夫だし。」
「いや、でも。」
ほんと、と言ってまだ涙の残る瞳がニッコリした。ニッコリしているんだけど、でもそれは。
「嫌だね。」
「えっ?」
「俺といて泣いて欲しくないから、わけを教えて。じゃないとまた泣かすんじゃないかって心配になるから。」
紫帆の心の奥に届くようにゆっくりと言葉を重ねる。泣かせるなんて、あり得ないだろ。じっと見下ろすと紫帆の頬が少しずつ赤くなってきた。
「貴くんは、」
「え?あ、うん。」
「優しいしあったかいし楽しいし。」
「ん、まあくだらない部類だろ。いつでも村上に怒られてるしなー。」
「一緒にいるとお日様に照らされてるような気になる。」
「まあ俺ら太陽あってなんぼだしな。」
もうっ、すぐ茶化すと脇腹を押される。だいぶいつもの紫帆に戻ってきた。
「人気あるし誤解させる。」
「へ?」
安心し始めていたのにここにきてまた迷路だ。
「ほ、」
「ほ?」
「―他の女子に優しくしないで、なんて死んでも言いたくないの。」
「え、ああ。ああ?」
何だかわかるようなわからないような。女子、なんだろうか、この迷路自体。ええと多分でもあれか?もし俺の思ってる通りなら。
「あのさ、」
弾かれたように顔が上がった。
「紫帆、俺のこと好きなの?もしかしてすげえ。あ、違ったら殴っていいわ。」
「バ、」
呆気にとられたように半開きになっていた唇がいきなり大きく開いた。
「バカ、貴くんすごくバカ。」
「え、バカ?俺が?ああそう。」
腹にズシンと振動が来て、やっぱ間違ったのかと思ったのと、何だかとてつもなく甘い香りが強く立ったのとが同時だった。驚いて見下ろせば、紫帆が抱きついていた。ふざけて頬をつついたり手を繋いだりするのが俺達の最大限だったから、ショックだった。あまりにも事が大事すぎて。体中が震えるように熱くなってくる。身体の奥底から次々に押し寄せてくるこんな熱波は知らない。気付けば本当に手が震えていた。何だ、どうしたんだ?
「好きなの、大好きなの。」
なのにとどめを刺すかのような言葉が甘く立ち上ってきて背中に汗が噴き出した。
「…貴くん?」
今見上げられでもしたら何をしでかすかわからないから、無理やり紫帆の髪の毛を撫でて腹におしつけた。長くてつるつるした髪の毛を何度も撫でつける。ムギュッと空気が漏れるような音がして、
「ぐ、ぐるしい。息出来ない。」
こもりにこもった声が聞こえて来たけど、そんなことより俺を何とかする方が先決だ。こんな時にあの瞳を見ようものなら―
自分で自分を信用出来ないなんて生まれて初めてだった。
結局その夕暮れは、紫帆の抗議の声を聞きながら、震える手で抱きとめるのが精一杯だった。
高二の秋に初めて知った衝動だった。
最初のコメントを投稿しよう!