第二章・ヤオ村

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第二章・ヤオ村

「──な、何ですかこれは……」  山道の下りに差し掛かった時である。ヤエとリュウキの前に、とんでもない光景が現れた。 「酷いね」  隣でポツリと呟くリュウキの表情が強張る。  遥か彼方まで続く美しい梅の木々に紛れて、どす黒い惨状が広がっていた。のどかな風景を壊しているものは、鎧を血の色に染めて倒れる五人の兵士たちである。  兵士たちは、首や腹辺りから鋭い何かで傷つけられており、渇いた目を見開いていた。一体、どこを見ているのか分からない。  いや──もう、彼らには何も見えていないのだ。全員、既に息をしていないのだから。  生臭さと鉄の匂い。その中に梅の甘い香りが混ざっていて、鼻の奥が刺激される。  吐き気がした。 「ヤエ、行こう」    心配そうな声でリュウキはヤエの手を引く。早歩きでその場を通りすぎ、無言で坂を下った。  喉まで胃の中のものを戻してしまいそうになったが、ヤエは必死に耐える。  やがて、あの気持ちの悪い匂いが届かない所まで行き着いた。リュウキは一度足を止める。 「……ヤエ、大丈夫?」  眉を八の字にしながらリュウキはヤエの顔を覗き込む。  彼に握られる手をそっと放してから、ヤエは小さく頷いた。 「すみません、突然だったので驚いてしまいました」 「……そうだね、僕も驚いたよ。あんな悲惨なものを見たんだから。……見たところ、化け物にやられたんだろう」 「なぜ分かるのです?」 「兵たちの首もとに、大きな牙のようなもので傷つけられたあとが残っていた。人間や普通の野生動物じゃないのは明らかだ」  リュウキは冷静に話し続けるが、そこから声が低くなった。 「でも妙だな……」 「何がですか?」 「化け物がやったなら、なぜあの兵士たちは食われなかったんだろう」  その疑問に、ヤエの胸がどくんと唸る。 「化け物が別の兵士を食らい、腹がいっぱいで残りは放置されたというなら分かる。でも、人骨の残骸すら見当たらなかったな……」 「あの、リュウキ様」  そこでヤエは大きく首を振った。思わず重い口調になってしまう。 「申し訳ありません、考えると気分が悪くなるので……この話は終わりにしませんか」 「あっ。ごめん!」  リュウキはハッとしたように一度口を塞ぐ。俯き加減になり、再び小さい声で言うのだ。 「……気になっていても、どうしようもないよね。僕たちの旅には関係ない。もうこの件に関しては忘れるよ」 「すみません、私の我が儘で」 「いや、僕の配慮が足りなかった。許してくれ」 「大丈夫ですよ。先を急ぎましょう」  切り替えるように、リュウキは一度大きく息を吐いた。  ──そうだ。この世は、軍の兵士でさえも化け物に噛み殺されてしまうのが常なのである。ヤエは忘れていない。  嫌なものを見てしまった。  そんな中でも、山の風はあたたかい。空気に運びこまれてくる春の香りが、ヤエの気持ちを少しでも晴らしてくれるのだった。  ──その後、二人が山を下りきった頃にはすっかり陽が暮れていた。あともう少し遅ければ、野宿になっていただろう。  ヤエの足はふらふらで、体力も限界を迎える頃だった。意図せずに、息が荒くなってしまう。 「ヤエ、大丈夫?」  一歩二歩先を歩くリュウキは、足を止めて心配の眼差しを向けた。 「歩くのが少し速かったかな」 「いえ、そういうわけではないです。お腹が空いてしまいました」  ほんのりと頬を赤く染めつつも、ヤエは正直に答える。  リュウキはにこりと微笑み、北西の方角を指した。 「あっちを見てごらん」 「えっ?」  リュウキの目線の先には──  星空が輝く下で、白い煙が漂っているのが見える。 「煙突があるんだろうね。この先に、村がある証拠だよ。すぐ近くだ」  その言葉を聞いて、ヤエは安堵した。  ヤエは再度前に進もうとしているが、乱れた呼吸が際立ってしまう。 「ヤエ」  リュウキはすっとヤエの前に立ち塞がる。 「辛そうだよ」 「そ、そうですか?」 「僕が村まで背負ってあげよう」 「……はい?」  たちまち怪訝な顔をするヤエ。  それでも気にする様子もなく、リュウキはにやにやしながら彼女に背を向けるのだ。 「おいで」とリュウキが言う中、その横を華麗に素通りしてヤエは首を振る。 「ふざけてないで。早く村へ行きましょう」  冷たい口調であしらっても言われた張本人は笑顔を絶やさない。 「ヤエは照れ屋さんだなあ」 「そうではなくて。自分で歩けますから」 「強がっているところも可愛いよね」 「……あの、どこまで私をからかうつもりですか」    リュウキの軽口に、ヤエは返事をするのも億劫になりそうだ。  ──下らないやり取りをしていると、あっという間に二人は村の門前まで辿り着く。  外から村の中を窺ってみると──陽が沈んだ今も人々が活発に活動している様子が確認できる。出店などが並んでいて、家や店のあちこちから飯の良い香りが漂ってきた。  リュウキたちが何食わぬ顔で村の門を潜り抜けようとすると──門番の男二人に行く手を塞がれる。  予想はしていたが。  西軍の鎧を纒い、ばっちり武装した二人を眺めながら、門番の男が問い詰めてきた。 「……兵士の格好をしているな。『ヤオ村』に何の用だ?」  小太りの門番がキッと二人を睨みつけてきた。彼の問いに二人は目を合わせる。何者か自分たちもよく分かっていないのだから、どう答えるべきか。  顎を指で軽く触れ、小さく頷き、リュウキは作り笑顔のようなものを浮かべた。   (ここは任せて)  そう言うようにリュウキはヤエの前に出て、にこやかに門番たちに話をする。 「巡回に来たんだよ。この村が危険に犯されていないか、何か困ったことがないか。しっかり確認するのも兵の立派な仕事だ」 「……巡回? わざわざこんな小さな村の為に?」 「そうそう、陛下の命令でね。日々内政は変わるんだよ。知らないのか、君たちは」  全く動じることなく、さも事実を言っているかのような振る舞いをしている。ヤエも思わずリュウキの嘘、ごまかしの話を信じてしまいそうになってしまう。  門番の二人は口を閉ざし、じっとリュウキの顔を眺めた。  暫し沈黙が続いた後、スラッと背の高い門番が口を開いた。 「……念の為、その長剣はお預かりいたします」  門番は、ヤエの腰に備えつけてある剣を指差すのだ。  リュウキは首を捻った。 「えっ、どうしてだ?」 「村人たちに危害を加えないとも限りません」 「あのさぁ、君たちね。理由もなく民を傷つけたりしないよ。無礼じゃないか?」 「そうは言っても。お帰りの際にはお返ししますから」  リュウキと門番があれこれ言い合っている最中、ヤエが呆れながらも門番たちの前に立ち、長剣を差し出した。 「もういいですよ、武器くらい預けましょう。別に村の中で使うこともないでしょうし」  ただ一晩休めればいいだけだ。返却してもらえるのなら、何の不都合もない。  リュウキは腰に両手を当てながら、半分不満げな表情を浮かべつつも首肯していた。  ヤエはこの時、胸中やるせない気持ちになった。軍によって、民は命を粗末にされてしまうことがこの時代にはよくある。門番たちの対応は、その表れなのだろう、と。  ヤエは無慈悲な今の時代が好きになれない。いや、きっと今を生きていて「幸福だ」と言える人の数などいないに等しいであろう──  無意識に溜め息を吐きながら、ヤエはリュウキと共に村の中へと歩みを進めた。
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